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硯水亭歳時記 Ⅱ 

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた
July 04

草木塔(そうもくとう)・行屋(ぎょうや)・かてもの 米沢の民人に眞の魂の薫り聞きたり

 2010

  「行屋」と呼ばれる小さな小屋で 山岳信仰に行く前の禊(みそぎ)をする大切な場所 (伝国の杜 庭園展示)

 

 

 

 

         草木塔(そうもくとう)・行屋(ぎょうや)・かてもの

                    ~米沢の民人に 眞の魂の薫り聞きたり~

 

 うっかりすると、見逃してしまうような事柄に対しても、米沢は素晴らしい感動の連続がありました。謙信公の家訓十六ヶ条を最も遵守し、そこに気高い魂を護持したのは、米沢上杉藩初代となる景勝でありました。寡黙な武将で、無駄口を一切たたくことはありませんでした。その寡黙さ故、秀吉から一目置かれ、畢竟直江兼続は、どうしても己が直接の配下に置きたかった人物でした。兼続の、謙信公、及び景勝公に対する忠誠心は半端なものではなく、尊敬する親方様がいてこその己なりとキッパリとしていました。幾ら金銀財宝や禄高など、全くもって要らぬお世話でした。謙信公の仏道へ帰依する心得が、景勝・兼続二人の主従関係をより一層堅いものにしていたと言ってもいいでしょう。米沢に三年ほど前から先乗りをしていた兼続は、徳川家康とよしみを組んでいた最上義光が当面の敵将でした。佐渡金山の管理は当然のこと、この主従のものでしたが、鶴岡や酒田を中心とした庄内地方は予てから義光が狙いを定め、まさに進軍中でした。そこで兼続は庄内地方を制圧するために、どうしても出羽三山の山伏・修験者との草の根を味方につける必要があったのです。そして謙信公が帰依する高野山信仰を具現化しなければなりませんでした。改めて藩内の精神的基盤作りも必須のことだったようです。

 先ず目に付けたのは、既に存在していた民間信仰です。いきなり出羽三山の信仰に行く前に、欠かせないのは既にあった端山(はやま)・深山(みやま)の山岳信仰でした。山脈に連なる山々で里に近く、あまり高くなく美しい山が端山と呼ばれ、里に住む人々には特に親しまれていました。端山の奥にさらに高く聳えるのが深山です。この重複するように結び会う端山と深山の形が出羽の住人に、篤い信仰心を育んで来たのでした。恐らく人にとって最大の関心事は「生と死」の問題でさったでしょう。かつて端山の近くに住む里人も、死と死後の世界のことを葬送の中で想念したのではありますまいか。里人が死ぬとその屍は端山の麓に葬りました。肉体が腐敗する頃、その人の霊魂は肉体を離れ。美しい端山の頂きに登ると考えられました。端山に登った霊魂は、残して来た子供や家族や親族を山頂からじっと見守り続け、三十三年間、その頂きに止まるとも言われておりました。そしてさらに高い深山に登り、そこから天のアノ世に行くと考えると考えられていたのです。天に昇った先祖の霊魂は、お正月にお彼岸にお盆にと年に数回里に帰り、家族と交じり、死者と生者は永遠に関わり、語り継がれると考えられていたのです。そのことは、死は決してすべての終りではなく、コノ世の単なる一つの終息であると意味です。この考えは人生最大の苦である死を乗り越える人間の叡智であるように思われてなりません。端山・深山信仰の名残は今でも各地に御座います。米沢地方の「羽山と吾妻山」、長井地方の「葉山と朝日岳」、上山地方の「葉山と蔵王山」、村山地方の「葉山と月山」、庄内地方のでは「羽黒山と月山」「葉山と麻耶山」などでしょうか。優れた御山に対する崇敬の念は、人々の心に深く影響し精神世界を育てたものだと容易に考えられます。又こうした精神世界こそ、日本人の心の原風景になっていることでしょう。

 さて出羽ノ国の美しい山岳景観は、民人たちに豊かな精神文化を育んで参りました。特に、端山・深山と呼ばれる山と山とが重層する姿は、死者と生者との関わりを想像させる端山・深山信仰を育んで来たのです。出羽を代表する出羽三山信仰の草創も、端山・深山信仰がその基にあったと思われてなりません。即ち、村山地方の端山(葉山)深山(月山)と庄内地方の端山(羽黒山)深山(月山)が月山で重複し、「羽黒山・月山・葉山」の出羽三山が形成され、湯殿山は総奥の院として篤く祠られて来ました。出羽三山信仰の形態は、人生を過去世(羽黒山)、現世(葉山)、来世(月山)と考える三世救済から生まれており、殆ど崩せない信仰形態なのです。ところが、出羽三山の一山である葉山は、葉山修験道の拠点となり、その麓にある寒河江の慈恩寺との関係が深まる中で、独立するしかなく、三山より離れてしまいました。そのために一山を探しに、白羽の矢が鳥海山が当たり、出羽三山は一時「羽黒山、月山、鳥海山」となりました。しかし、鳥海山は主峰である月山から距離も遠く、高さも月山より高く、永きに渡って出羽三山の一山となれなかったようです。また一山探しになりまして、月山の近くの薬師岳が選ばれました。理由は、最初の葉山も現世救済の仏である薬師如来が祠られ、次の鳥海山も月光川、日光川の両菩薩を従える薬師如来であったからですが、すぐ傍らに薬師岳より高い湯殿山がありましたので、湯殿山を加え、現在の出羽三山・「羽黒山、月山、湯殿山」として形を整えて行ったものと考えられます。

 総奥の院たる湯殿山の信仰の篤さを表しているものに、数多くの石碑があります。出羽の国だけで最も多い石碑は「湯殿山」碑でありまして、湯殿信仰の深さを雄弁に物語っているように思われます。湯殿山は出羽三山の総奥の院として、東日本のみならず全国から一心に篤い信仰を集め、江戸期の丑年ご縁年には一年間に十五万人の参詣者があったと言われ、まさしく日本を代表する聖地の一つであったのでしょう。湯殿信仰は自然崇拝と祖霊崇拝という日本人の二つの原始信仰であります。参詣は素足になり、神主の拔いで体を清めて中に入る。先ず頂きから熱湯が噴き出ている茶褐色の大きな岩のご神体にお詣りする。この信仰は日本人が永く続けてきた自然崇拝の象徴である巨岩信仰で、大神神社の盤座(いわくら)や京都上賀茂神社の盤座などと同じ信仰でありましょう。ご神体のご礼拝がすむと奥にある岩供養と呼ばれる先祖供養の場所に進みます。売店で線香、蝋燭、梵天、塔婆と人形(ひとがた)の紙を売っております。お塔婆に託したご先祖の霊は、梵天の鳥に案内され、阿弥陀如来を祀る月山に登る祖霊信仰となるのです。明治政府が神仏分離を強行しましたが、出羽三山、特に湯殿山には「神仏習合」の形を守り残した全国でも稀有な信仰地であるのです。人の命は、親から生れ、親は更にその親からへと無限に先祖の命が、その流れの恵みにあり、その命は自然の空気や水や植物・動物の自然の恵みによって生かされていることになります。湯殿に残る祖霊崇拝と自然崇拝の二つの原始信仰は、人間の生命の存在を諭す哲学的意味を現代に訴えているように思えてなりませぬ。

  ここまで長く民間信仰をご説明申し上げたことに理由があります。実は兼続の執政は、そこから始まったからなのです。それまでは米沢には、ご説明申し上げたように、端山・深山信仰しかありませんでした。兼続が出羽の信仰に着目したのは、二つの大きな目的があります。出羽を征するのに、山岳修験者の協力が絶対に必要だったこと、おですそれと人心掌握のことであります。兼続自身端山である兜山に登ってから米沢の都市計画が始まりました。そうして出羽三山の信仰を米沢にもたらせたのは、基本的な人心を一掃する目的が最重要な課題だったのです。兼続の思惑は当たりました。ウコギの栽培や、鷹山の時の所謂「かてもの」の原形を兼続は為しえたのでした。学問だって、鷹山が江戸から学者を招いて藩校の礎をしたのは、兼続のほうが断然先んじています。彼は学問が大好きで、国宝級の漢籍や韓本を集め、熱心に修得していたのです。九代目鷹山が藩校である米沢・興譲館と立設するに及んで、細江氏を招いたことはつとに有名な話ですが、兼続にしたって、禅林文庫を開き、学問に非常に熱心でした。つまり申し上げたいことは、鷹山の施政の根本は既に兼続によって作られていたものだったのです。精神的土壌にあるいい例は「草木供養塔」であります。長々とご説明申し仕上げましたが、日本に類例がない草木を供養する「草木供養塔」の根本精神は鷹山ではなく、何と兼続が蒔いた種にあったのです。出羽三山の根本精神を広め、そこで兼続が万物にイノチありと教えた兼続の精神を鷹山が学んだ結果だったのです。

 米沢市田沢の最古の草木塔

鷹山時代に初めて建立された「草木供養塔」 これは最も古い草木塔 建立年1823年(文政6年)8月

 

 草木にもイノチが宿り、草木の供養を祈って再生を願う塔です。米沢を中心に70箇所ほどの塔がありますが、山伏の影響があったり、真言密教の影響があったり、塔は様々ですが、何と言うことでしょう。日本広しと言えども、米沢中心に置賜にしか確認されておりません。木々を流す「木流し」の無事安寧を願った人たちの祈りでもあったのでしょうが、僕たち夫婦はこれに接し、何度感動したことでしょう。米沢の民人の、心優しい思いを受け取ることが出来ます。そしてこのことが今最も大切なことではないかと思い至ったことでもありました。

 

 

(左) 佛歌が書かれている草木塔   (右) 草木塔中最大の大きさを誇る 信仰の深さが分かる

 

 左の供養塔には「一仏成道観見法界」「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」とお経の一節が刻まれています。仏教の「草木はもちろん土にいたるまで、すべて仏になり」といった教えの影響がみられ、湯殿山の信仰の深さがここまで達していたことになるでしょう。これに兼続の教えの影響が強くあったからです。無論この塔は鷹山の時代の産物で、江戸屋敷の火事や市内の火事で、御料所内の立派な木々が打ち倒され、その木々の悲鳴を聞いた方々の思いもあったでしょう。春先、川に流す木々を運搬する方々への安全祈願でもあったでしょう。でもヤヨヨロズの神々たちの為せる業だったかも知れません。僕たち夫婦はこの塔に立ち尽くし、今や無くなりし神代の心得が懐かしく、又嬉しくもありました。こんな心情が米沢の民衆の土地に生きていたなんて、少々悪いが、藩主のご遺徳を偲ぶより、どんなに心地よかったことでしょう。

 それと「かてもの」の存在も感動致しました。「かてもの」とは御飯に足して増幅し食べるものを指しますが、驚くことに、これも又鷹山がらみのことでありました。為せることは何でもやった鷹山は、御用医師などに依頼し、植物の効用や機能を徹底して調べさせたのです。完成するまでに実に20年の歳月を費やしました。一般の農作物が不作の時でも成育して、比較的よい収穫を上げられる作物や山野に自生する植物で飢饉の際に食糧になるものを、救荒または備荒食品といいます。現在の食糧の豊かな時代に暮らす私たちにとっては、あまり耳慣れないことばとなってきました。

 時代を遡り江戸時代の1767年、当置賜地方では米沢藩九代藩主 上杉治憲(鷹山公)により数々の遺業のひとつとして、飢饉克服のためのきめ細かな備荒対策が施されました。救荒食品の知識の普及と各自の備蓄を勧める目的で、1783年には「飯粮集」、1802年には「かてもの」が発行されました。当時の日本はまだ植物学の知識も低く、まして雪国の一地方において、家老を中心に医師たちの手で文献や体験を頼りに、両者をあわせ約五十科百四十四種にもおよぶ救荒植物を取り上げて、普及書として人々のためにまとめ上げたことは、鷹山の偉業の一つと言えるでしょう。従って救荒食品の知識の普及と各自の備蓄が勧められることとなり、1833年天保の大飢饉の時にも、領内においてたった一人の餓死者や離散者を出さずにすんだと言われています。その後も天災にともなう凶作・飢饉の度に、「かてもの」を頼りにかて飯・かて粥・おみそうず・ご飯にかわるかいもち(そばの粉食形態)などで、明治時代を通り過ぎてきました。

 この地方の人々は山の豊かな自然の恵みである山菜を食べる食文化を受け継いで、今日に至っています。今でも「かてもの」の一部の食品は、人々の生活の中で綿々と受け継がれて、アサツキ・ウコギ・カシロ(食用菊)・南原の手打ちそば・雪菜など当置賜地方の特産品となっているものもあります。以下に、「飯粮集」「かてもの」にあげられていた植物をあげてみることにします。

※主に置賜地方での呼び名にしてあります。

 

   <かてもの>

  植物名※  科  食用部位など 


  スギナ  スギナ科  若芽。消化が悪く、老人や子供には不向き
  ツクシ  スギナ科  胞子嚢を取り去るとおいしい。 
  ゼンマイ  ゼンマイ科  茹でたものを乾燥してから、再び水煮して戻してから食する。 
  ワラビ ウラボシ科  灰汁抜きが必要。(ワラビの料理) 
  コゴミ  ウラボシ科  茹でて水にさわして、すぐ食べられる。 
  カヤノミ  イチイ科  種実。炒って皮を取り去り調理する。 
  クルミ  クルミ科  種実の子葉部 
  ハシバミ  カバノキ科  
  ドロブ  ヤナギ科  若葉 
  ブナ  ブナ科  種実・若葉 
  コナラ=シダミ  ブナ科  コナラの実をシダミと言い、灰水で長時間煮て水でさわすことを繰り返し渋を出してから食用にする。 
  クヌギ=ヂダグリ  ブナ科  実。コナラと同じに処理する。 
  クリ  ブナ科  
  クワ  クワ科  若葉。やや硬い。 
  コウゾ=カウス  クワ科  若葉。硬い。 
  ミヤマ=アイコ  イラクサ科  現在では山菜の王者とも言われる。 
  ミズナ  イラクサ科  茎。赤みず(=ウワバミソウ)は茎が赤く、煮物・油炒めなどで食べる。青みず(=ヤマトキホコリ)は、茎が緑色で、浸し物・みそ汁などで食べる。塩蔵する (青ミズナの料理) 
  イタドリ  タデ科  若芽。塩蔵したり茹でてから水にさわして調理。シュウ酸を多く含むので、過食すると下痢をする。(イタドリの料理) 
  ギシギシ  タデ科  若芽。イタドリと同じ扱い。 
  ソバ  タデ科  
  ミソソバ=ウシヒタイ  タデ科  葉・茎 
  アカザ  アカザ科  若葉・芯。茹でてさわして食す。 
  ホウキギ=ハハキキ  アカザ科  若葉は茹でてさわして食す。種実はトンブリとも言われ、今はその風味が楽しまれている。 
  イヌビユ=ハビャウ  ヒユ科  葉を茹でて、浸し物・油炒めして食べる。 
  ヤマゴボウ=トウゴボウ  ヤマゴボウ科  芽を茹でてから水にさわし、乾かして貯えた。根は有毒。葉は下痢やじん麻疹を起こす。マルミノヤマゴボウは有毒。 
  スベリヒユ  スベリヒユ科  シュウ酸を多く含むので、妊婦は食べない方がよいと記してある。茹でてそのまま乾かすと、葉が落ちてしまうが、塩を加えまぶしてから乾かすと葉が落ちないという経験的な知恵も記されている。 
  ハコベ=アサシラゲ  ナデシコ科  昔から春の七草の一つ。茹でる時に臭みがあっても水にさわせば消えて栄養価の高い野草。種実を小鳥が好んでついばむ。 
  ハス ヒツジグサ科  今でも普段に、根は生食や煮て食す。若葉は茹でたり、乾かして粉にして食す。 
  コウホネ=カワホネ  ヒツジグサ科  根茎を刻み灰汁水で茹でてさわしてから調理する。猛毒のドクゼリの根と間違わないように記してある。乾燥したものは、川骨=せんこつと呼ばれて、打撲・月経不順などに薬用として利用。 
  ナズナ=ナツナ  アブラナ科  春の七草の一つ。味噌汁・浸し物に加えて香りを楽しむ。 
  ハタケナ  アブラナ科  コマツナまたはアブラナと推測される。 
  カブ=カブラ  アブラナ科  寒地でも栽培に適している。現在では途絶えたが米沢市遠山地区で毎年種子が採取され特産品として遠山かぶが栽培された。 
  チシャ=チサ  キク科  葉野菜として栽培されていた。栄養価が高い。カキチシャと推測される。乳汁を分泌し、あくがやや強い。 
  ダイコン=タンコン  アブラナ科  奈良時代から栽培され、春の七草の一つ。米沢市南原地区には、弘法大根と称した海岸に自生するハマダイコンが栽培された形跡があり、今でも自生状態で見受けられる。また、米沢市万世地区梓山には、梓山大根と呼ばれる大根が特産品として人々に親しまれ栽培されたが、いまはその面影も薄れた。 
  トリアシショウマ=トリアシ  ユキノシタ科  若芽を茹でてから水でさわし、浸し物・和え物にして食す。いまでも好んで食べられている山菜。若芽が鳥の足のように三つに分かれているところから付いた名。 
  ウツギ  ユキノシタ科  若葉。硬い。利尿薬として煎じて飲用。 
  ツルアジサイ=ツタの葉  ユキノシタ科  若葉を茹でて水でさわして食す。胡瓜のような香味。 
  カワラサイコ  バラ科  若葉を灰汁水で茹でて水でさわして食す。米沢市松川・鬼面川に自生していた多年草。河川改修に伴い生育場所が減少し、現在は稀少植物。 
  ヤブキショウマ=イワダラ  バラ科  現在は、山菜として人気が高い。 
  ワレモコウ=ノコギリハ  バラ科  茹でて水にさわして食す。干して臼でつき米粉と混ぜ団子にしてきな粉で食したり、味噌を合わせて焼餅にした。なおナガボシワレモコウ・スカシタゴボウなども考えられる。 
  イヌエンジュ=エンジュの葉  マメ科  若葉 
  フジ=フジの葉  マメ科  若葉を灰汁水で煮て、2~3日水でさわして食す。 
  ホド  マメ科  塊根・葉共によく煮て水でさわし、塩を加えて食す。焼いても食べられる。また乾燥して保存も可。 
  サイカチ  マメ科  若葉を、塩一つまみ入れた熱湯で茹でてさわして和え物にして食す。果実を石鹸の代用品として使った時代もある。人家や神社仏閣に栽植されていた。 
  ネム  マメ科  葉を茹でて水でさわして食す。 
  メドハギ  マメ科  毒性はないが葉が薄く繊維質が多くあまり役立たなかったと思われる。
  カワラケツメイ=カワラチャ  マメ科  若苗・新芽は浸し物や天ぷらとして食す。また秋に全草を刈り取り乾燥して刻み、昔からお茶の代用とした。弘法茶の名もある。薬用として腎臓病・利尿によい。 
  クズ=クズの葉  マメ科  新芽・若葉は塩を入れた湯で茹でて、ごま和え・煮びたし・油炒めで食す。花は天ぷらにして食す。根からは薬効成分も含まれるでん粉が採られ、葛粉として利用される。 
  アズキ=アツキの葉
  ササギ=ササゲの葉
  ダイズ=マメの葉  マメ科  葉 
  コクサギ  ミカン科  脾臓・胃の弱い人は食すなと記してあるが、茎葉に悪臭・種々のアルカロイドを含み有毒で、腹痛を起こしたのではないか。 
  ウルシ  ウルシ科  危険!新芽を採取し茹でてさわして食したと思われるが、時期・食べ方を誤ると嘔吐・下痢になる。現在は食用植物からはずされている。 
  カントウマユミ=マユミ  ニシキギ科  若葉 
  ムクゲ  アオイ科  葉。木皮・根・花蕾は、胃腸カタル・腸出血・下痢・嘔吐などの薬用として用いられている。 
  イチビ  アオイ科  実。生食・干して挽き粉にし餅団子にして食す。 
  トチノキ  トチノキ科  実。トチ餅として今でも食べられるが、かなりの時間とアク抜きの手間がかかる。 
  ブドウ=ブドウの葉  ブドウ科  葉。灰汁水で煮て水でさわし、苦味を取り去ってから食す。 
  マタタビ  サルナシ科  若葉。塩なくは食うべからずと記してある。 
  ウド  ウコギ科  
  タラノキ=タラ  ウコギ科  若芽をタラノメといい、今では山菜の中でも人気が高い。味噌和えもよいと記してある。 
  ヒメウコギ=ウコギ  ウコギ科  若い芽と葉。ヤマウコギも食された。(ウコギの料理) 
  ニンジン  セリ科 
  シャク=ノニンジン  セリ科  若苗を採り、茹でてからさわして浸し物・和え物にして食する。今も山菜として利用。 
  ミツバ=ミツバゼリ  セリ科  葉・根共に食すと記してある。 
  ヒメアオキ=アオキバ  ミズキ科  毒性はないが、苦味がかなり強い。 
  リョウブ=サルナメシ  リョウブ科  若葉。毒性はないが、茹でても硬い。 
  カキ  カキノキ科  実。 
  ガガイモ=ゴンガラビ  ガガイモ科  若芽を茹でて、水でさわして浸し物にする。特有の甘味がありおいしい。ガガイモと若芽が類似しているイケマは、若芽の時は毒性があまりないので、ガガイモと混同して採取され食用となる。 
  ヒルガオ ・コヒルガオ =アメフリバナ  ヒルガオ科  若葉・地下茎。茹でたあと、浸し物・和え物で食す。あまり長く食べない方がよいと記してある。 
  ネナシカズラ  ヒルガオ科  若い蔓を茹でてさわして食すと記してある。現在では、種子を薬用(強精・強壮)として利用。 
  ウツボグサ=ウハノチ  シソ科  若葉を灰汁水で茹でて水に二晩ほどさらして食す。現在では全草を薬用(利尿薬)として利用。 
  ナス=ナスの葉  ナス科  葉を細かく刻み、茹でて水にさわして食した。 
  クコ ナス科  葉は茹でて食した。また、果実・葉は薬用(疲労回復・消炎・利尿)作用があり、乾燥してお茶ですでに飲用されていた。 
  キリ  ゴマノハグサ科  若葉を茹でて食すと記してある。細毛が密生して食べ難かったと思われる。 
  オオバコ=シャセンソウ  オオバコ科  食味に癖がなく、安全な食草。 
  スイカズラ  スイカズラ科  新芽・若葉をひとつまみの塩を入れて茹でてさわしてから、浸し物・油炒めにして食す。香りのよい花は、ホワイトリカ-に浸して花酒を作れる。 
  タニウツギ=ヤマウツギ  スイカズラ科  若葉。しかし米沢地方では、この木の枝でお骨を拾う箸を作ったことから、仏木と呼び縁起の悪い木とした。毒性はない。 
  オミナエシ=オミナメシ  オミナエシ科  若葉。秋の七草の一つだが、残念なことに今では山形県の稀生植物のひとつ。漢方で根を敗醤(はいしょう=この草を乾燥させると、醤油の腐った匂いがする)と言い、薬用(利尿剤)として用いられる。 
  オトコエシ=ヲヲヅチハ  オミナエシ科  若葉を茹でて、二、三度水にさわして食すと記してあるが、やや硬く味もあまり良くない。 
  キカラスウリ=カラスウリの葉  ウリ科  若葉を食す。果実・種子・根を薬用(黄疸・利尿・解熱・咳止め)として用いる。また、塊根から天爪粉(=てんかふん)というでん粉を製し、小児のあせもに(=天然のベビ-パウダ-)用いられた。 
  ユウガオ  ウリ科  果実は細長い。干瓢の原料。細かに刻んでも、干してもよいと記してある。 
  スイカ  ウリ科  江戸時代の初め頃に琉球より渡来し、江戸時代には各地に産地が生まれていたようだ。 
  マクワウリ=マクワ  ウリ科  1630年頃にすでに栽培されていた。昔のマクワウリは、果実が熟すると水分甘味香気を有するが、美味ではなかった。 
  ヘチマ  ウリ科  若い果実は苦味がなく、皮をとり揚げ物・汁の実・漬物にて食す。完熟した果実を水に浸して繊維をとる。江戸時代の初め頃に、南方より輸入された植物。 
  フクベ=カンピョウ=カンヒヤウ  ウリ科  果実が平たい球形をしたユウガオの変種。果実は苦味が強く、果皮は堅い。昔は干瓢の材料に、また熟したものは中をくり抜き炭入れ・火鉢・置物などの細工物の材料とした。 
  トウガン=カモフリ  ウリ科  果肉は味が淡白で、煮物・汁の実・漬物などよく食べられる。江戸時代の初め頃に中国より伝わる。 
  ニホンカボチャ=ボウブラ  ウリ科  栽培が容易で栄養価に富み、米の糧としてとても役立ったと思われる。300年位前にポルトガル船により、日本へもたらされた。 
  シロウリ=シロフリ  ウリ科  果実を漬物にして食す。奈良漬の材料として知られる。 
  キュウリ=キウリ  ウリ科  若い実は生食。熟果は煮物・漬物。天平時代に中国より伝わる。 
  ツリガネニンジン=トトキ  キキョウ科  若葉・若芽を茹でて水にさわして苦味をとり、食す。 
  キキョウ  キキョウ科  若葉と根を食すと記してある。秋の七草の一つ。 
    ソバナ=アマナ  キキョウ科  若苗・花を食す。 
  オヤマボクチ=ヤマゴボウ  ヤマゴボウ科  中国渡来のヤマゴボウ(=根・茎葉には毒性あり。利用時期・調理法を誤ると腹痛・下痢を起こす。)ではないと考えられ、米沢地方に自生するオヤマボクチと考えられる。若葉は茹でてさわして、米の粉とつき団子にして食す。根は漬物にして食す。(現在のヤマゴボウの漬物は、モリアザミ,キク科の根が多く利用されている。) 
  ナンブアザミ・ダキバヒメアザミ・サワアザミ・モリアザミ=アザミ  キク科  葉を取り除き茎を塩蔵して、積雪で新鮮な野菜の不足する冬の季節に、煮付け・油いりして食す。灰汁が強く繊維も多いが、今でも食べられる。(アザミの料理) 
  コオニタビラコ  キク科 
  オニタビラコ=タビラコ  キク科  花が咲く前の軟らかいときに摘み、やや苦いが食用となる。 
  タウコギ=カラスノヤ  キク科  若苗。 
  フキ  キク科  (フキの料理) 
  エゾタンポポ=クジナ  キク科  若葉は浸し物・和え物・サラダにして食す。根は乾燥して健胃・胃痛・消化促進・催乳に用いる。 
  カントウヨメナ ・ユウガギク =ヨメナ  キク科  若葉。昔から春の摘み草の一つ。 
  ハンゴンソウ=ヘビアサ  キク科  若い茎葉を摘み、浸し物・煮物で食す。今でも、茹でたものを乾燥して貯える。多食は避けたほうがよい。 
  オケラ  キク科  若い苗。根茎を漢方で白朮(=びゃくじゅつ)と言い、健胃・利尿薬に用いる。屠蘇散(とそさん=延命長寿を願うの漢方薬で年頭を祝うお酒が広く知られる。)・蚊やりの材料ともなる。 
  イヌトホナ=ドホラナ  キク科  東北地方の日本海側の雪国に分布している植物。多食はしない方がよく、茹でてから水でさわして塩をまぜて用いる時はよいと記してあり、最近の薬草学より若干毒性があり、多食を避けた方がよいことがわかったことと合わせて考えても、文書の素晴らしさがうかがえる。 
  ヨモギ  キク科  里のヨモギと山のヤマヨモギ(=やや香りが強く、灰汁もあるので水でよくさわす。)が食された。 
  カワラホウコ=カワラシチコ  キク科  茎・葉を灰汁水で茹でて水にさわし、米の粉と混ぜて餅団子にして食す。 
  コウゾリナ=カヤナ  キク科  若苗・茎頂の芯を茹でてから水でさわし食す。 
  ごまな=サワクキタチ  キク科  春の若芽を茹でて、浸し物・和え物にして食す。 
  サワオグルマ=ヤチブキ  キク科  若い葉・茎を茹でて食す。 
  ノコンギク=ノギク  キク科  若芽を茹でて水でさわして食す。 
  ホウコグサ(ハハコグサ)=シチコ  キク科  春の七草の一つで、ゴギョウのこと。白い細かい綿毛が茹でるとつなぎとなり、米の粉などとつき混ぜて、団子や草もちの材料となる。 
  ベニバナ=コウクワ  キク科  若苗。中国・朝鮮を経て日本へ飛鳥時代に渡来し、花は染料として用いられる。 
  メナモミ  キク科  春に若葉を茹で水にさわしてから食す。漢方で全草を乾燥して、腫瘍・利尿・消炎・解熱などに用いる。 
  ヨブスマソウ=ハトナ  キク科  
  ゴボウ  キク科  山・荒野・やぶ地に自然生で栽培を奨励することが記してある。930年頃に中国から伝わった古くから栽培されている野菜。 
  クワイ  オモダカ科  塊茎。干して貯蔵できる。 
  ガマ=ガバノツノ  ガマ科  根元から出る若芽や太い根を、灰汁水で茹でて水にさわしてまた蒸したりして食す。米の粉に混ぜて団子にしても食した。 
  マコモ=カツギ  イネ科  芽。葉・茎を乾かして仏前に敷き、ガツギゴモを作ったりした。 
  アシ(ヨシ)=ヨシノツノ  イネ科  若芽。肉厚くして軟らかいとも、記してある。 
  チガヤ=チガヤノメ  イネ科  芽を灰汁水で茹でて水にさわし食す。また、若い花穂は甘い粘液を含み子供たちはツバナと称しなめたりした。 
  チカラシバ=ミチシバ  イネ科  
  アブラガヤ=ハラナ  カヤツリグサ科  
  ショウブ=セキショウ  サトイモ科  根茎を食す。また根茎には芳香があり、漢方で健胃・鎮痛・腹痛に用いた。また五月五日の節句の日に、邪気を払うために、葉・根を入れて風呂を沸かした。菖蒲湯と称し、浴用として用いられた。 
  サトイモ  サトイモ科  子芋。親芋。茎・葉柄も生や乾燥して食する。中国より日本に伝わる。 
  ヒメザゼンソウ=エゴナ  サトイモ科  えごくて、食べ難い。春に芽・苗を茹でてから水にさわし食すと記してある。 
  ツユクサ  ツユクサ科  若芽・若苗を茹でてさわして食す。また、花の色素は瑠璃色で美しく、古くは摺り染めに用いたり、友禅の下絵の具材になった。 
  ヤブカンゾウ ・ノカンゾウ ・ニッコウキスゲ=カンゾウ  ユリ科  若葉・若苗を塩一つまみを入れて茹でて水でさわし、浸し物・和え物にして食す。花は蕾の時に、茹でてから乾燥して貯える。過食すると消化不良・下痢を起こす。米沢地方では、原野に八重咲きのヤブカンゾウ、山麓にノカンゾウ、山峡にニッコウキスゲが分布する雪国ならではの植生をみることができる。 
  トウギボウシ・オオバギボウシ・ミズギボウシ・コバギボウシ・タチギボウシ=ウルイ  ユリ科  若葉を茹でて、浸し物・煮物・和え物・汁物などとして食す。美味しい。 
  ナルコユリ  ユリ科  若苗を茹でて水にさわして食す。甘味がある。漢方で根茎を黄精(=おうせい)といい、滋養・強壮薬に用いる。 
  アマドコロ=アマトコロ  ユリ科  若苗を塩一つまみを入れて茹でて水でさわし、浸し物・和え物にして食す。 
  カタクリ=カタタゴ  ユリ科  花・葉・茎は茹でて干し貯えた。茹でて水にさわし食べると、甘い食味を感じるが下痢を起こすので多食はしない。地下塊根からでん粉をとり、片栗粉と称す。万葉の頃より親しまれている植物ですが、最近は激減しているので、大切にしたい。 
  アサツキ  ユリ科  春先、鱗茎や若芽を茹でてさわして、浸し物・和え物にして食す。 
  ノビル=ノノヒル  ユリ科  若葉・鱗茎を茹でて浸し物にしたり、生で味噌をつけて食す。 
  ギョウジャニンニク=ウシヒル  ユリ科  全体にニンニク臭があり、若い根を食す。その名の起こりは江戸時代に山岳信仰の行者達が強壮薬として盛んに食べたことによる。 
  ヤマユリ ・ヒメサユリ ・コオニユリ・オニユリ=ユリ  ユリ科  鱗茎。ユリの名のあるものは、何ユリでも食すと記してある。これらのユリは、最近は激減しているので、大切にしたいものです。 
  シオデ・タチシオデ=シオデユリ科  今でも人気の高い山菜。 
  ニラ  ユリ科  
  ネギ  ユリ科  
  オニドコロ=トコロ  ヤマノイモ科  根茎。味が苦いので木灰汁で煮て、1~2晩流水でさわし苦味を除いて食す。 
  ヤマイモ  ヤマノイモ科  自然薯のこと。根の部分を煮て食べたり、とろろにして食す。茎にできた珠芽をムカゴと言い、煎って食す。このムカゴを荒地・藪地を掘り返して蒔いておけば、ヤマイモが年々太く育ち飢えを助けるので、救荒植物として栽培するようにと、記してある。 
  ツクネイモ=ツクイモ  ヤマノイモ科  こぶしのような形をした粘り気の強い薯で、とろろで食すると最高に美味しい。 
  オニノヤガラ=ヌスビトノアシ  ラン科  根。塊茎を塩を入れた熱湯で茹でて、水にさわして食すと記してある。また、根茎を漢方で天麻(=てんま)といい、強壮・頭痛に用いる。数も減少し大切にしたい植物。 


 ※以下の2件は猛毒植物の記載である。

 
  トリカブト=カフレブス  キンポウゲ科  これを食せば即死すると記してある。若芽の時、ニリンソウやモミジガサ(シドキ)と間違えて食す危険性がある。 
  ハシリドコロ=ミネコサズ  ナス科  フキに似たり。これを食せば即死すと記してある。若苗の時葉が広がらずに出でくる姿がフキににているからと考えられ、誤食すれば死に至る。 

  尚 他に禽獣のいことが細かく書かれてある

 以上こと細かに精査し、印刷して藩内に配っている。他藩では飢饉の際、多くの餓死者を出したりしているが、上杉藩ではたった一人の餓死者も出さなかった。今、僕たちは上杉伯爵邸に気軽に「かてもの料理」を戴けることであるが、上杉家裂帛の藩政をただ黙して食べ、往時を感ずるのみである。

  兼続は、謙信公の教え通り、ウコギの植栽を越後から持って来ていた。思うに、鷹山公の手法の、その多くは兼続を踏襲したものであったと想像される。兼続が種を蒔き、鷹山公は花を咲かせ、実をつけたのであった。それだけに兼続の先見の妙と器量の大きさが伝わってあまりある。戦国の一武将であったかも知れないが、彼の見据えた歴史観は、僕たちに重く警鐘を鳴らし、多くの課題を投げ続けている。

 

CIMG4253   CIMG4374 の補正

ウコギ 殆ど生垣になって食用とす     美味しいサッパリ味のウコギ茶

 

 

 本日のBGMは Chopinの「La Campanella」

July 02

直江兼続 米沢春秋物語

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側室を持たなかった直江兼続と妻・お船の方の墳墓 

同じ大きさで 同じ意匠で 如何に仲がよかったか表現して余りあり (米沢市春日山林泉寺にて)

 

 

 

                     直江兼続 米沢春秋物語

 

 直江兼続が豊臣秀吉から拝命を受け、伊達政宗の後に米沢入りしたのは、兼続38歳の時であった。無論上杉景勝は豊臣家重臣・五大老の一人として、北方に睨みを利かせるため、越後から加増移封され、会津120万石の城主となった時で、景勝から米沢の所領を預かり、山形藩・最上義光に対抗するためでもあった。景勝の正室・お菊の方と同様、京都・伏見にある上杉藩邸に、言わば人質になるようにして行っていた兼続の正室・お船の方も、兼続とほぼ同時期に米沢入城をともにしている。一方お菊の方は生涯京都に行ったきりで、景勝の側室・四辻氏が二代目定勝を生んだことへ嫉妬の余り自刃して果てたと言う説があり、それが歌舞伎・『本朝二十四考』の八重垣姫のモデルになっているらしいが、いずれにせよこの二人の女性は幸不幸、糾える縄の如くであったのだろう。

 米沢は山形県内でも有数の豪雪地帯である。一年の殆どが寒々とした中にある。まだ上流である最上川は細い川幅だが、暴れ川で、土石流も多く、それほど肥沃な土地ではなかった。兼続は入城当初先ず街じゅう何処からでも見られる兜山(かぶとやま)に登り、そしてそこで米沢の道路計画を策定し、城内を固めるのに奔走したのだった。現在の米沢市内でも、何処からでも兜山が見えるが、特に南北の走る道路はこの兜山を目指して走っている。この経験は既に新潟で実践済みで、用地灌漑が何よりも必要なことだと考えたのであったろう。謙信公伝来の青苧の栽培やウコギの栽培など、米沢藩中興の祖として名高い九代目藩主・上杉鷹山公入城以前にも既にあったようである。寧ろ鷹山公は兼続の方法を厳粛に踏襲し実現したことになろうか。更に驚くべきことは、越後から会津へ、そして米沢へと没落するように減移封されても、景勝や兼続は家臣の誰一人も、召し放ち(リストラ)をしなかったことである。後に藩政が汲々として来る原因の一つになったことであるが、家臣一行は皆付いて廻ったことに驚く。それだけに義によって結束が固かったのであろうか。

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米沢市内どこからでも見える兜山

 

 直江兼続は永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として、越後の坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれ、僅か23歳にして山城守と名乗り、景勝の家老となって、内政・外交を一手に引き受けた。そして元和5年12月19日、江戸藩邸で満60歳で亡くなるまで波瀾に満ちた生涯を生きた、僕は、それを妻と二人でしっとりとして見たかった。あれほど熱心に、秀吉から近習の誘いを受けても、ガンとして義を貫き、景勝のお傍要人として生涯を終えた兼続は、ただ単に義を通しただけなのであろうか。だがそれは僕にも一脈通じるものがあった。亡き主人のお傍にいた時は本当に幸せであったし、あれほどの人間に仕えた僕は誰よりも幸せだと今でも思っているが、兼続の心情はどことなく分かって胸が苦しかった。人に仕えて光る人間もいれば、人を使って生きられる人間がいることは充分に知っているからだ。それであの「愛」の兜は、上杉神社宝物殿の稽照殿に密やかに、その存在をヒカリと示していた。愛染明王か愛宕権現か、いずれにもしても判然としなかったが、戦国の世を生きた人の紋章であるに違いなかった。

 

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ウコギの生垣がある武家屋敷 意外に質素な佇まい 農家と見紛ひし

 

  戦国の世を生き、安土桃山時代から太閤の天下へ。そして大阪夏の陣や冬の陣から江戸幕府へと移行する渦中の兼続である。一つ間違えれば、いつでも首が飛ぶ時代である。本当に一本の道をひた走りに走れたのだろうか。不可思議とも思える兼続の短い生涯の出来事ばかりが目に付く。上杉神社(謙信公が祀られている)の傍、伝国の杜では、今NHK大河ドラマ「天地人」放映中の各役者が着る着物や小物が展示してあるが、そこでも兼続の吐く息の跡が見えなかった。あの兜山と春日山・林泉寺にある墳墓だけだろうか。僕と妻は歩き続けた。そうして漸く武家屋敷の通りに出る。尤も武家屋敷と言っても金沢や、他の武家屋敷とは雲泥の差で、まるで農家そのものであったが、生垣にはウコギが生り、トタン屋根のお宅を尋ねると、藁葺き屋根は建築許可関係上一切罷りならぬと言うことであった。僅かに残った藁葺き屋根の武家屋敷。越後から会津へ。そして徳川時代には更に減封されて、景勝は兼続のいる米沢へ。知行安堵されただけでも見っけものかも知れない。僕たちは武家屋敷を彷徨いながら、最上川の突堤に出た。狭い川幅でも、所々に堰がある。如何にも暴れ川らしい。背高のっぽの蒲公英が群生していた。よく観ると「直江石堤」と書いてある。驚くことに、その背後に累々と石積みがしてあった。これが兼続の造った堤防の跡だったのだ。僕たちは、最上川原や直江石堤でいつまでも遊んだ。そこからあの兜山がよくよくと見えた。妻と二人、何故だか手を取り合って僕たちはしゃくりあげ泣いた。自ら率先して地味な出でたちをし、妻と、慕う景勝さまへ、一本道の幾春秋、秋には目映いばかりの紅葉や、冬には毛布のような暖かな雪や、春の芽吹きの美しさ、そして夏はきっと水遊びもしただろうか。三つ年上の姉さん女房のお船の方と地道に努力をすることに決して労を惜しまなかったであろう。米沢はそんな清新な精神性に溢れていた。

 

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直江石堤(谷地河原堤防とも呼ばれ 1,2キロ続いていた (実際は3キロ作った記録あり)

 

  僕たちは、いつのまにか兼続所縁の法泉寺と文殊堂に迷い込んだ。兼続が漢籍や多くの書物を集めた小さな古屋があった。参禅したと言う場所もあった。境内をお散歩している老女に訊ねると、兼続さまはご立派な方で、三才を兼ね備えていると言われる。さすれば三才とは何かと問えば、「詩・文・武」だと仰られる。エッと驚く。もう一度三才とはどのようなものでしょうかと言うと、兼続さまのポエムを知らないなと言われる。あの方のラブレターは清くて凄いものであんすよと。確かに兼続には優れた多くの漢詩があったはずだが、そこまで高度なポエムがあって、詩に優れた御仁であっただろうかと改めて驚く。それから老女は、あの池の向こうに、景勝の母君で、謙信公の姉君である仙洞院のお墓や景勝公のご正室の菊姫のお墓などがあるんだべやと言う。熊笹を掻き分けて池の裏手に行くと、ひっそりと、仙洞院初め、景勝ご正室の菊姫さまや定勝ご正室の市姫さまや、四代綱勝公のご夫人である媛姫さまや、九代目鷹山公のご側室・お豊の方さまの方々の御墓があった。実にひっそりとしていて、静謐そのものであった。夏の日のような極端な暑さの中で、僕たちは深くお祈りをした。でも爽やかな雰囲気の中、枝垂れ梅が小さな梅の実をびっしりと落としている。それを5個ほど拾って、僕たち二人は、馨しい馨しい梅の実の香りを、佇んでずっと楽しんでいた。
 
 

  直江兼続は上杉神社境内にある松岬(まつがさき)神社(大正時代築造された神社)に、春日四柱大神や景勝公や鷹山公とともに鄭重に御祀られている。無論景勝公や鷹山公は上杉家御廟に主に安置される場所に眠っているが、かくなる祀られ方は、兼続の功績を後代の方々が特別に褒賞してのことだろう。尚今回宿泊した白布高湯温泉の近くには直江兼続が密かに鉄砲を作らせた跡があった。碑銘は「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」とあり、智将らしくここまでくれば、なるほど密やかに作れたはずだと思えた。上杉家二代目藩主・定勝は、菊姫亡き後直ぐに、実母の四辻氏も亡くなったため、直江夫婦は定勝の育ての親となった。直江兼続亡き後、お船の方は直ぐ剃髪し引き籠ったが、定勝に多大な影響を与え、その後も高禄を戴いていたようである。よく言われることは、頼朝にとっての、北條政子であるような存在であったと言わしめたほどであった。上杉の行く末を先々まで見届けつつ、江戸で81歳の生涯を終えると、兼続の墳墓の真横に仲良く入ったのである。

 

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春日山・林泉寺に咲く花々たち きっとこの花々は春夏秋冬いつも供養しているのだろう

 

あまりにも書く事柄が多く 上杉神社や上杉御廟や鷹山のことは明日以降の稿に改めたいと存じます!

 

June 30

夏越(なごし)大祓いの御神事

 

 

 

  夏越の祓い お手水場に開く紫陽花

 

 

 

 

 

       夏越(なごし)大祓いの御神事

 

 

 6月30日になると、どうしても話題に出したいのは、夏越の大祓いの御神事のことでありましょう。律令年間から約100年ほど行われ、ずっと途絶えていた行事が江戸時代に復活するのですが、明治の御世になってから一旦禁止になったり、再び解禁になったりしていました。夏越と大祓いが常にごっちゃになっていた何よりの証拠で、本来は別々のものであったに相違ないのですけれど、今やそのどちらとも引き合うようにして一緒になった行事と言っても差し支えないでしょう。そもそも何処が政治的な判断しかねる話ですが、「夏越」と言う名目では、伊勢の神宮でやらない行事で、伊勢の神宮では「大祓い」だけになっていたことから、夏越と大祓いを、即刻同時に認め難いということになったのでしょうか。

 いずれにせよ、夏本番を前に厄除けや魔除の意味がありました。「茅(カヤ=チ)」と言う類稀な成長の早い植物にあやかり、「ケ(穢れ)」を付けて流すこともありますし、茅の輪(胎内)くぐりをすることによって、新しく強い魂を入れ替える意味もあったのでしょう。「蘇民将来」伝説では、小さな茅の輪を作って、それを身体に身につけ悪魔除けにした説もあります。概して意味はみな同じなのですが、最も古い習慣・習俗では、七夕神事はお盆の行事の一端だったのです。佛教が導入されてから、お盆の行事のみ取り上げられ、七夕さまの行事だけが置いてけぼりにされました。でもそのお盆の行事の前にも、「禊(みそぎ)」をする必要がありました。と、申しますのは、古くは一年間を二度に分けてあるのが普通でした。従って現在残っている民俗には12月と6月、7月と1月、それぞれ酷似しているのです。年末の大祓いもありますが、こちらは「年越しの大祓い」と呼ばれています。

 

 

 

 

 和菓子・「水無月」 外郎の場合と葛の仕立てがある 紅い豆は邪気を祓ってくれるので必ず大豆が乗っている

 

 

  日本人は祓いと清めによって、幾らでも再生出来る。そのことは、日本人の根本精神になっているように思われてならない。禊をして新しくなれると言う民間信仰は通常に行われていた確実な証であり、民間信仰は、それほどに根深いものだし、僕たちの根本中道に芯から入っているように思える。単純に、高が民間信仰のことであろうと思われるかも知れないが、そこが実に重要なことである。この水無月の最後の日に、外郎(ういろう)か葛かどちらでもよく、要するに紅い魔除の大豆の「水無月」があればいいことである。そんなことをしみじみ考えさせてくれる今日である。そろそろ七夕さまとお盆の準備をしなければならない時季到来ということだろう。

 暑い夏を迎えにあたって、人それぞれに、それぞれがお元気でいて欲しいと、心から願うばかりである。お盆とお精霊さまと、真摯に向き合い、お互いの奮起を確かめ合うのもよかろうと思う。皆さんのお宅でもご先祖さまのことを是非想い出して欲しいと願う。そこに眼に見えない相乗があり、ご先祖さまが、きっと眼に見える手助けをして下さるに違いない。おしょうしな!

 

 

 

 愛宕神社の茅の輪くぐり 茅は生命力の象徴であった

 

June 27

櫻桃浄土のめでたきは 娘・杏(アン)満一歳に

 

 

 樹齢150年の櫻桃に光るサクランボ ビッシリと実っています 何故ビニールハウスかと問えば

 雨に打たれて 陽がさすと 実の皮が割れやすくなり 商品価値がなくなるのを防ぐためと 当節盗難防止策だとか

 

 

 

櫻桃(おうとう)浄土のめでたきは

 

娘・杏(アン) 満一歳に

 

 

6月25日に、第一子、娘の杏が満一歳を迎えました。皆からお祝いをして戴きました。

この時季最も盛んなるものは、櫻桃(サクランボ)。そこで本場・山形に全員で参集し、櫻桃のもとで、

杏のお祝い会を致しました。特に、我が父が「諦めていた孫が誕生し、こんなに心豊かになれるものか」と歓んでおりました。

京都の義父母たちも、たった一人の娘に出来た孫・杏を、ことの外歓んでくれ、歓びいっぱいに炸裂しています。

父と義父は、奇跡に近くとっても仲良しで、それに義母と我が叔母と、おおはしゃぎしておりました。

二晩続けて大宴会。大いに盛り上がりました。でも本人・杏は、僕たち夫婦と静かに過ごしました。

去年、早川さん のお陰を持ちまして、杏に頂戴致しました高柳佐知子先生のサイン本も一緒に持って参りました。

あの時は、どんなに嬉しかったことでしょう、ミッフィーの本と、 「エルフさんの店」を携行しています。

あれもこれも、本当に皆さまのお陰だと心深く感謝致しております。有難う御座います。

 

 

櫻桃たち 圧倒する生命感のパワー 煌いていました 寒河江にて

 

 

四方巡る山々は、青く透き通って輝いて見えます。青い山脈とはよく言ったものです。清澄なる空気も、充分に満喫致しました。

お空は雲一つなく抜けるようで、紺碧に深く輝いて、生命あるものすべてが、その生命感で横溢しています。

こんな時季に生まれてくれた我が娘を、親馬鹿ながら誇りに思います。だってまったくその通りの輝きの季節なのですから。

初日、寒河江の櫻桃園で、サクランボ狩り。京都の親たちは無論のこと、たわわに実る実は驚天動地で、よっぽど嬉しかったのでしょう。

 

寒河江温泉の薔薇風呂に入ったり、紅花畑に行ったり、宿泊は上山近く葉山温泉の「古窯」に宿泊しました。

米沢牛のステーキや芋煮や、鮎の塩焼きや、ズンダ餅や、ダダチャマメの塩茹でや、山菜や、鯉こくなどテンコ盛りです。

特に米沢牛のシャブシャブは結局人数分の倍を食べてしまいました。お酒は出羽櫻。高畠ワインの貴婦人。お宿のほうで、気遣いをしてくれて、

杏のために、素敵なケーキをプレゼントして戴きました。お部屋代も、通常料金で思い切り素晴らしいスウィートにして戴いたり、感謝感謝!

みんな一緒に、そこで泊まりました。信じられないほどです。お湯はまったりとした癖のないいいお湯です。斎藤茂吉記念館にも行きました。

あの「たそがれ清兵衛」の真の謙譲の心こそ、モギッツァン(茂吉)に相通じるものがあるような気がしてなりませんでした。

 

 

清冽な山翳 霊峰・月山 映画村がある鶴岡から見るとギザギザな御山ですが 山形内陸部から見るとまさしく神の山 月型

 

 

 三日目、父は残雪多い朝日連峰の登山に向かいました。山形駅頭にて、岳友4人と待ち合わせです。京都の義父は故あって、急遽山形空港から一路関西空港へ向かいました。義母と叔母と、僕たち三人での五人は米沢の奥地・白布高湯温泉に移動。朝から真夏のような体感温度で、実際32度ぐらいあり、白布高湯だけは山端にある関係上、まさに別天地。涼しい山の緑の中で、遊び疲れた杏はスヤスヤと寝入っています。妻と、僕は兼続思慕の米沢市内の旅へ。今日と明日、米沢巡りです。

 米沢は謙信公所縁の土地ながら、謙信公はただ一度も来たことはありません。謙信公の御亡骸は、甲冑を着て、立てにし壺に入っており、漆を塗られたものでしたが、春日山から、会津へ。そして米沢へと、家臣とともに移動していらっしゃいました。禄高が極端に減っても家臣団は皆付いて着ました。凛とした謙信公十六ヶ条の家訓の影響が、市内の隅々に漫々と満ちています。感動の連続でした。更に実にいじらしく可愛い兼続の治水事業や灌漑用水の働き、まだ上流で細い最上川の堰塁にも、その残像がありました。そこの野辺には、風に揺れて背高のっぽの蒲公英の花がびっしり群生しています。側室を持たなかった兼続は、お船の方と仲良く睦まじく並んでお墓においででした。二人とも同じ大きさの清楚な墓墳で、絶えることのない生花が添えられてあります。そして中興の祖、上杉鷹山公の影響も溢れていました。ここ米沢は、清らかな武士の精神が充満している精神性の強い街です。潔い鷹山公、隠居した九代目に子が出来るや、さっさと家督を、自分の子ではなく、その子に託しています。様々な藩政の改革。あのジョン・F・ケネディが大統領になりたての頃、目指す指導者は誰かとの記者の問い掛けに、日本の上杉家、特にこの鷹山公だと言わしめたほどでした。武家屋敷に、ウコギを尋ねました。鯉の養殖、米沢牛の開発、米沢織、染料や医薬品や食用になる植物の繁殖、裂帛の気合での学問の奨励、武道・火縄銃の鍛錬、御能の庇護、どこもかしこも強い精神性で満ち溢れています。そこで、もう一泊します。明日も又上杉神社の宝物館である稽照殿に赴き、国宝・上杉文書(数多くの文書類を指しています)に、妻とともにタップリと浸るつもりです。この機会に、杏には悪いが、杏を叔母と義母に委ね、身重でも興味津々で元気いっぱいの妻と、吾妻連峰からの涼風を期待しつつ、ちゃんと観て勉強したいと存じおります。今日は御宿のパソコンを使っての投稿ですが、帰りましたら、又改めてユルリとご報告申し上げまする。おしょうしな!(米沢弁でサンキューの意味 京都ではおおきに 島根ではだんだん)

 

 

 兼続が禅林文庫跡に

 

兼続が蔵書を収めた禅林文庫庭内 枝垂れ梅の小さな落ち梅 拾ちゃったぁ

 

 

June 24

父の「劔岳 点の記」

 

ビオウヤナギ

 

 

 

 父の「劔岳 点の記」

 

 

 

 先ほど、父から静かな電話があった。

手っきり明日からの旅行の件かと思ったが、 映画『劔岳  点の記』を観て来たというものだった。

「観て来たぞ」と言ったっきり、電話の先で物音がしない。「どうだったの」と聞いても、しばらく返事がない。

どうしたんだろうとそのまま待っていると、無口な父らしく、しばらくしてからボソボソと話し始めた。

「私は、58歳の時、厳冬の劔岳に岳友と二人で登ったんだよ。初めて滑落を経験した冬山だったんだ。どうせと、

家に帰っても誰もいない、だから一瞬岳友とそのままかなぁとさえ・・・・(ボソボソ)。映画の詳細は日記に書いておく。

当時、君はM家にいづっぱりで、殆ど帰って来なかったからな、嫌々これは愚痴ではないんだ、じゃ明日な」と、それで電話は切れた。

そう言えばそうだ、父が百名山の踏破を狙って、日本山岳会の岳友と、山々を登っていたことも、永い間僕は知らなかった。

僕はその映画の感想を聞きたかったが、明日から数日は一緒に居る。その時聴けたら聴こう、そう飲み込んだ。

ただブツ切りの沈黙がヤケに気になった。何なんだろう。多分実家に父の実妹が出戻りして来る前だったか。

父は、よほど孤独だったに相違ない。映画は、仕事に全傾注している方々にきっと素晴らしい映画なのだろう。

目的を持って生きることは多くの場合、孤独なのかも知れない。母が死に、ずっと独り身を守って来た父を責めたりもした。

何という浅はかで愚かな息子だったのだろう。明日から数日間は一緒に居る。

想像するに、恐らく先ほど話した以上、映画については、モノを言わないだろう、だから電話だったのか。

過ぎし日、父を、散々放っておいた罰を受けなければならない。改めて父の孤独さを、強かに思い知った。

明日初孫の満一歳の誕生を記念して、夕刻我が家に着いた京都の義父母とともに、全員7人で行く。

山形サクランボ狩りと米沢行きだ、取り返せるうちに、何かを取り返そうと、密かに思い至っている。

 

僕も、あの映画を必ず観ようと思う、木村大作という希代の名カメラマンは、どんな監督ぶりなのだろうか。

映画梗概を見ると、近年稀に見る豪華な芸達者が揃っている。父はきっと大いに泣けたのだろう。

 

(今度のミニ旅行にパソコンを持って出ません。従って数日間は更新致しませんし、皆様のところもお邪魔出来ないでしょう!ペコリ!)

 

小道の奥へ   梔子の花   柘榴

梅雨の合間に咲く花々 ドクダミ 泰山木 梔子 枳殻 何だか白い花が目立つ 「朝顔市」の母の命日が近いせいだろうか

 

 

 今宵のBGMは 平原綾香さんの「Jupiter」

 

 
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