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02 novembre 明恵~ネット不信への解答杏と庭内散歩 公孫樹の葉は我が家にはない 何処からか迷いこんだか
明恵~ネット不信への解答
今朝6時25分発のANAで福岡に来ています。唯一私が約束をした、パリ在住の若者ご夫妻にお約束を果たすためです。それには彼らにとって資金が必要なことだからです。地方銀行への出資金の回収の件ですが、本日某銀行の役員と面談し銀行側から、私の持分の出資金の返却を求めているのです。無論信頼する私の弁護士三人も同行しています。今度ばかりは最終交渉なので、銀行側経営陣から、私が理事であることに決して不満はないし、このままの存続を希望していると言い訳し、今のところ全く変わりありません。通常の株式と違って、現在の銀行法では理事の資金は思うようにならないのです。たった一万円の出資金の回収だって半年かかると言われれば、もう強烈としか言いようががありません。まして多額の資金の回収となれば況やおやの状況で、その交渉も然ることながら、手続きが半端なく煩雑です。現在名前が違うこの銀行が倒産仕懸かっていたのですが、現在の試算表や収支報告書などによると、意外に健全化されていたのが何よりです。でも私の意思、何としても今日中に、一定方向の結論を得たいと奮戦しています。 今日のANAは低気圧が太平洋側にあるようで、いつもの航路ではなく日本海沿岸上空を飛んでいるのですが、時折エアポケットに入るらしく、ドキッとする場面も多いんです。但しプレミアムシートのお陰でパソコンは使いたい放題で有難かったです。思い切り玄界灘のほうから、海ノ中道脇を通り福岡空港に進入、やや遅れてフライトを終えました。福岡空港は地下鉄が完璧に整備されているせいか、都市の中心部まで僅か10分足らずで入ってしまいます。9時のお約束を少々待つことに。そうして件の交渉をしていました。 このところ先日発信したネット不信の小生の書き方がやや極端過ぎると、多くの方々から多大な叱責を受けました。ありていに申せば、あの対象は出会い系サイトの書き込みやブログを申し上げたかったのでした。セックスを釣り物にして結婚詐欺、そして恐ろしい殺人まで、何と女性が主役でやってしまうご時世で、改めてことの重大さを知っただけです。ネット弊害の過酷さと深刻さ、今の人々の心の荒廃を直接感じられてなりませんでした。私のブログ仲間では、道草先生やMfujinoさんやささ舟さまの交流は非常に楽しげでいとおしく、私の羨望の的です。ネット全部を否定しているのではなく、寧ろネット社会の発展を心から待望している一人です。ネットが健康に発展すれば、何も仰々しく多くいらっしゃる政治家諸君の人数を限りなく減らせるからです。数が論理で間違いはないのですが、一面何故自らの総数を減らすことはないだろうかと単純な疑問が湧いてきます。だからこそネットにこそ今後の社会に絶対に必要なことがあります。予算では人件費など一番いい例で、一把ひとからげで人件費と表現され、どこにどのように支出されたのか、詳細には役人にしか分かりませんのです。この点、大人しい納税者の一人として酷く立腹する部分です。ネットが発達し、ネットが一定の信頼を勝ち取れば、すべて情報公開され、市民参加どころか、直接市民が参画できるようになるのではと淡い希望を持っています。無論小さな政府が前提となるでしょうが、寧ろ私はネットに非常に期待している立場なんです。そうでなかったら、今月のように毎日更新しようなど馬鹿げたことはしないでしょう。ブログ仲間の彼女は申します、今までの信頼関係はなんだったのかと。仰る通りです。私に全く変化ありませんが、今回の事件や多くの悲劇的なネット上でのことを勘案して申し上げたまでです。お許し戴けないでしょうか。 朝、待合の時間、お昼、そして唐津に行くことをついぞ断念し、最終の便で帰ることを決めた今、日に何度もWidows Live Writerを開いたことでしょう。今朝一番に決めた明恵のことを、ここで少しお話申し上げたいと存じます。日本には過去多くの革命的な事象がありましたが、未だに日本人は自己を確立していないのではないかという懸念が私を明恵に駆り立てます。以下少しだけ詳しく申し述べます。承久三年(12211年)に起こった承久の乱や、それに続く一連の出来事は、わが国の歴史に画期的なことでありました。「革命的」と称することができるほどでもありませんが、三人の上皇の配流に続いて朝廷領の没収、守護・地頭制の強化などがあり、乱後11年目には、それまで日本を支配していた律令制度に替わるものとして、幕府は「貞永式目」を制定しました。今まで形式的に朝廷が保っていた権力の中枢を武士の幕府に移ったという事実のみならず、「貞永式目」という法そのものの内容、およびそれを支える思想が極めて画期的であったという意味で、「革命的」なことであったと思います。 さて、承久三年の乱は、幕府軍の勝利によって、瞬く間に終わってしまいましたが、このとき明恵は、朝廷側の武士や公卿などの未亡人をためらうことなく高山寺にかくまいました。『伝記』によれば、このために怒った鎌倉武士は明恵を捕らえ、六波羅探題・北条泰時のところに引っ立てていきました。明恵はすべて覚悟の上であったので、泰然自若として、明恵にとっては敵味方なく、気の毒な人を助けるのは当然のことであると述べ、「是、政道の為に難義なる事に候はば、即時に愚僧が首をはねらるべし」と言いはなちました。泰時は、もともと明恵を心から尊敬していたので、大いに恐縮してしまい、深く詑びるとともに、寧ろ明恵の教えを受けようと致しました。 実は、承久の乱後に北条泰時が制定したこの「貞永式目」こそ、わが法制史上極めて画期的なものであって、明治憲法制定に至るまで、長きにわたって我が国を支える有効な「法」として活用されてまいりました。 その明恵が説く、「あるべきやうわ」の本質が、「貞永式目」のなかに生かされ、それは後々まで日本人の心のなかに生きてきたのでした。明恵の、「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)」について、「此の世に有るべきように有ろうとする」ことが大切であると明言していらっしゃいます。これは、当時急激に力を得てきた法然の考えに対するアンチテーゼであったのでしょうが、現世のことはどうであっても、後生だけ助かればいいなどと説いている経典はないと言い切っているのであります。これは実に凄いことです。そして明恵は一人、徒党を組むことはありませんでした。このような例に接すると、日本人としてはすぐに、「あるがままに」という言葉に結びつけたくなるのですが、わざわざ「あるべき」と、「べし」という語が付されているところに、多大な意味があるのではないでしょうか。このような日々の「もの」とのかかわりとは、すなわち「こころ」の在り様につながるのでありまして、それらを疎かにすることになく、し切ることに、つまり「あるべきやうわ」の生き方があると思われるのです。そこには強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なるものがあることを明確に推測されるのではないでしょうか。つまり実存です。悪戯にネットで偉くなったり、素敵になったり、文豪になったり、全く意味はないのです。明恵について、以後いずれ「華厳」との関係を書いてみたいと存じます。一日移動しながらの記事で、アップできただけでも満足かもしれません。 パリの彼女は、こところ急速な変化をしています。渡仏した時の作品とは甚だしく違っています。驚異的な進歩です。それに、花村萬月のような文章を書かれるご主人の存在が大きいのでしょう。彼は久しく見ないピュアな日本人男性です。私たちは間違いなくピュアな関係で信頼を致していると信じています。あたなさまのお父上がどんなにTを愛されていようが小生にはどうでもいいことです。私が嫌いなのはTのファン魂です。下品もいいところです。今日ヤンキースが3~1で大手をかけたらしいのですが、大リーグの観客を見てください。白球の音まで聞こえるではありませんか。応援にも節度があるのです。そこに如何に野球そのものを愛しているかがわかります。せめて相手を思い遣ることがあってもいいじゃないでしょうか。城島が入ることになって、Tファンは等しくただ喜んでいるのでしょうか。益々二軍の戦列の顔が見えなくなっているだけのことです。だってTチームだけでプロ野球は成り立たんのですから。京都の妻の実家では、お互いをちゃんとリスペクトしています。でもあなたはアイツだけには言われたくないのでしょうか。情けないと思います。それはさて置き、パリのあなた!この後このブログでは、ジミー・ツトム・ミリキタニを近々書こうと思っていますが、全く他意はありませんので、気にしないで下さいね。そしてお陰さまで、本日の結果はいい結果と相成りました。お約束は既に一年近くも遅れているのですが、こうして徐々に間合いをつめ日々頑張っています。空路ANAが荒れなければいいのですが、昨日の東京は夏日で25℃以上でしたし、今日は一転して木枯らし一号が吹いたそうです。昨日北海道の旭川では積雪があったようで、不安定な日々が続いています。どうぞお身体には充分ご留意なさって頑張って下さいね!!これから羽田便に搭乗します、では。
間違え 「でっきる」×←「できる」○ 御免なさい! 31 ottobre 流入人間の激増と、自生えのたみびとの縮小
流入人間の激増と、自生えのたみびとの縮小
今日はハロウィンであるらしい。夕べ妻に明日のハロウィンをどうするかと尋ねると、まさかやるわけがないとの返事である。海外では何度か巻き込まれた思い出があるものの、我が家には已然として定着していない。朝早く、妻と我がマンションに来た。朝顔の摘花をするためである。品川駅頭に異形の姿をした若者の姿があったが、チラリとやり過ごすだけである。ここに来た目的は霜月になるというのに、どうしたわけだろう、朝顔の花が終わりになっていなかったのだ。そんな思いをかけながら、我がペントハウスに未だに咲く朝顔の釣る瓶を引き裂いた。よく観るとまだまだ花芽があり、あんなに濃厚だった紫色は今にも消え入りそうな薄紫である。種を採取すると、夏じゅう約500以上の花をつけた筈の朝顔の種はたったの8つ。思わず涙がこぼれた。摘花してあげなかった結果だ。明らかに我が不徳のせいである。御免ねと何度も声をかけるが、すべては後の祭りで、来年こそ実家の庭に植えてあげると約束をした。 妻の18畳の部屋は蔵書で益々肥大になって、ここは妻にとっては確かに別天地であるらしい。ビデオを探すと、何とNHKハイビジョンで再放送中されている「美しき京の小路へ」(4分番組)という番組をずっと取っていた。やはり偶に京の実家へ帰りたいのだろうと話を向けると、それはまったくないという。じゃどうしてというと、妻の実家から私たちが与えられている別宅が偶々画面に出ていたから、観ただけだったと。それを見せてもらうと、確かに出ていた。膏薬辻子(こうやくのずし)。なるほどといったものの、やはり早いうちに一度帰ろうと仕向ける。今流行りの新型インフルエンザが怖いから、子供たちをあちこち断固出さないのだという。近いうちに、杏や大風に予防接種をさせようと考えているが、京都も東京も、何処でも流入人口だけが増加の一途で、自生(じば)えの人が圧倒的に少ないのではないかと、妻は危惧していた。既に20年以上になるが、私は日本全国のみならず世界も歩いてきた。妻から言わせると、どうも私は放浪する人間であるらしい。今度も、「あなたのお仕事は旅」と言って憚らなかった妻である。出逢いの時分から殆ど変わりないのが私なのだろう。私は自生えの人になることを信じたい。 地方は首府所在地だけが盛んで、田舎に行けば行くほど、人工密度はさることながら、圧倒して仕事がない。いつだったか苫小牧から単線の電車に乗って静内まで行った時に、途中の町々はどうして生きているのだろうかと不思議さと不安でいっぱいであった。それは現在でもずっと続いていることで、自生えの人がいて田舎廻りが豊かな山野になってこそ日本は自慢できるようになるのだと感慨深い。力なくとも岐阜の地場では幾らかずつ雇用を増やしている最中だが、然しよくよく観ると、今少しずつ地方にも萌芽が見えるように思えてならない。ぅう~~ん、きっとある。まだまだ希望を捨てていない。正念場はこれからだろう。そして情けない日本であってはならないと強く信じて生きていたい。 今日31日、近頃頻りにターシャ・テューダーに逢いたいと思う。ベニシアさんの連載(秋篇がもう4篇も貯まった)も書きたい。このお二人、どこかできっと繋がっている。ヒントはイギリスか。でも言葉の日めくりでのターシャの言葉をブログでアップしていいのだろうか。メディア・ファクトリー社に全く許認可を受けていない。そこを敢えて今日から記事末で始めることにする。今日から始めるのは霜月に31日がないからだが、私はこの一年日々一つ一つの言葉にどれほど勇気付けられてきたことだろうか。サンクス・ターシャ!そしてメディアファクトリー社!ターシャの感動をお伝えしたいだけである。それにしてもいつからでも何年でも使えるこの言葉のカレンダーを、一ヶ月も日々更新できるのだろうか。忙しい我が身上に、大いに疑問と不安があるのは間違いない。但しお伝えするのは31項目の言葉だけで、60点を越えるイラストはお伝えしないつもりでいる。
08 ottobre 被災者の皆さまへ13 agosto 平和ボケ国家の核問題 1945・8 Hiroshima&Nagasaki イノチに代えて許すまじ
平和ボケ国家として核問題 1945・8 Hiroshima&Nagasaki イノチに代えて許すまじ
<自慢するかのように、戦争を知らない僕たちが、このままでいいのだろうか> アメリカの国家防衛システムとはどのようなものだろうか。アメリカ政府は2001年に、「核戦略見直し報告」(Nuclear Posture Review 以降 NPRと略記)を議会事務局に提出した。当初この計画は機密扱いであったが、漏洩し、アメリカ国内では周知の事実となって今日まで来ている。途中、時の国務長官であったラムズフェルドによって、後に具体性を持って発表されるに及んだが、具体的には三つある。(1)攻撃システム(核兵器と通常兵器) (2)防衛システム(対ミサイル防衛システムと他の防衛力) (3)新たな脅威に対応する防衛インフラ(新核兵器の開発・製造と核実験の再開)、その三点である。これだけ見れば別段問題ではないかのように見える。そして後に公評され、NPRは新しい防衛システムとして掲げられるようになった。更にアメリカが核を使用出来る条件として三つが加えられている。(1)通常の兵器では破壊しきれない標的への攻撃 (2)核や生物・化学兵器を使う攻撃に対する報復 (3)予期しない軍事上の情勢変化 その三点である。問題はそれの(3)で、表現が非常に曖昧で微妙な表現となっていることだ。イラクのフセイン政府のように核(大量殺戮兵器)を開発しているかどうかまだまだ判然としない段階で、経済的に弱者のイラクなどの他国に対して核兵器使用可能になっている点ではないだろうか。 アメリカ国務省は、世界各国から直結しているかのように驚くべき速さで情報を収集し分析し、核大国の威信にかけてブッシュ前大統領のように無神経に核廃棄物利用の兵器で大量殺戮を容認して来た。事実イラクで劣化ウラン弾を約2000万㌧に及ぶ大量に使用済み核が使用されていたのを、一体誰が黙認していると言うのだろうか。もともとそういう思想・信条があったからではなかろうか。そもそもアメリカの国民全体が危うい存在ではないかと疑いたくなる始末である。一方日本国民や日本国のことは一切情報収集しない。何故かと言えば、日本国民は国内事情だけ情報を得たがり、日本の政治も政治家も各メディアや新聞報道機関も殆どグローバル的視点を持たない報道であり、情報収集能力がないと心底を見透かされているからでもあり、唯一の被爆国としてどんなに核爆弾の恐ろしかったかを声高に張り上げても、アメリカ・メディアは何一つ報道しないばかりか反応すらしない。事実広島や長崎の原爆慰霊祭にただ一度も公式に大使公使などが出席したことはない。日本が、世界観や事実関係にきっちり基づいた評論や、或いは世界で筋が通る国家戦略は一切持っていないからである。意地悪なアメリカ国民の一部に、もし世界に核戦争が起こったら、ゴキブリと日本だけが生き残るであろうと平気で揶揄して憚らないのが現状で、何とも悔しいのだ。日本人として剥き出しの疎外感を感じざるを得ない、そう言ったことがそら恐ろしい事実であり、日本をそうとしか見ていないことに愕然とし、個人的に大なる憤怒を禁じ得ない。それだけにこうした原爆被災記念日に、日本国民、取り分け若者たちは平和ボケの中でどっかりと胡坐をかいているのだろうか。 僕達は戦争を知らない。実感がないだけに評論するのが気後れするということだろうか。だがそれは違う。戦争を知らない世代だからこそ、多くの事実関係にしっかりと眼を見開き、後の世代にきちんとこうした大事なことを引き継いでいかなければならない。お陰で、あちこちで公文書や機密書類が存在していたことが分かり公開される機会が増え、一層切迫した形で、僕らは今や公然と知ることが出来る。だが一部には完全に平和ボケから抜け出せないで、悪いことに過日、日本政府があれほど強引に推し進めた侵略戦争の実態を知ろうともしない人が一般的で、かつてのあの戦争は侵略戦争であったと声高に言えば、右翼の街宣車がすっ飛んで来て、スピーカーでがなり散らされる始末もあろう。戦後赤化する恐れを感じた政府の一部が、祖国分断の危機に備えて裏で支えた遺物で、もはや到底容認出来ない代物である。隣国に未だに休戦中でしかない共産国家(正確には独裁主義国家)北朝鮮が存在しているからか、「右翼」は死語になっていない。もっとも韓国の事情と、我が国の事情は聊か異なっているのも事実であるが。
<原発・核施設の恐ろしさ 及び人類共通の悲劇的終末へ> ところで、2000年6月アメリカ・ワシントン州(東部にある首都ワシントンD・Cではなく、イチロー選手がいるシアトル近郊の町で州のこと)にあり、アメリカ最大規模の核生産基地であるハンフォード核施設内で大火災が発生した。火災は、6月27日(火)、核施設境界付近での、トラックと車の衝突事故を発端として起こった。日本の新聞各紙では、全く紹介されていなかったが、アメリカのニュースでは連日トップ扱いの記事で大きく報道された。AP通信やCNN等の情報によると、大火災は、ハンフォード核施設(990㎞四方)の約半分のヨモギに火が燃え移った。そして、3カ所の古い核廃棄物貯蔵施設にまで達したとの報道もある。この大火災は、30日(土)になって漸くおさまったが、リッチランド市から西へ約16㎞離れたベントン市では、25件の民家が全焼し、約7000人の住民に避難命令が出されたようだ。火の勢いは激しく、煙を吸ったりして13人が負傷し、内1人は大やけどをおって重体と。約8000人いるハンフォードの労働者は木曜日と金曜日は、自宅待機となった。そして後日この核施設は閉鎖を余儀なくされた、と。 ハンフォードは、1942年に出来たマンハッタン計画(オッペンハイマー教授の総指揮で核弾頭が研究され開発し、中でもこのハンフォードの核施設(広島・長崎に落とされた原爆を製造した場所である)のもとに、核兵器用プルトニウムを大量に生産されていた。無論永い間地元の住民には内密であったのは言うまでもない。一方この製造施設は、米国内最大規模の放射性核廃棄物貯蔵施設でもある。何千万ガロンという核廃棄物は、わずか6フィート(約1,8メートル)の地下に、177の貯蔵タンクにぎっしりとつめられている。但しその中でも三分の一はタンクが老朽化し、当然漏れているのである。そのタイミングでの火災で流れ出した放射性核物質に、この貯蔵タンクの2マイルにまで取水口があるコロンビア川が近づいていた。核廃棄物タンク爆発の危険や懸念もあったという。エネルギー省長官は、急遽ハンフォードを訪れ、「放射能の放出はない」とさかんに喧伝していた。州の保健省は、火災の直後から放射能のサンプリング調査を始め、放出の兆候は全然ないとしているものの、草木と空気の別のモニタリングを計画しているという。それも奇怪なことで怪しいものがある。核施設の土壌や草木に含まれている放射性物質が、火災によってまき散らされた可能性も大きく、多分計り知れないことだろう。ハンフォード核施設の風下住民は核被害に漸く気付き、一時は深刻なパニックを起こし補償問題にまで発展したが、何とその訴状はアッサリ棄却され、現在にまで至っている。何の補償があるわけではなく、現在稼動をやめた施設をまるで何もなかったように盛んに隠蔽工作をしているだけである。近くのリンゴ園や牛肉生産業者やジャガ芋業者は全く無関心で、万一日本が買ってくれなかったら大恐慌になってしまうと鼻息が荒い。無論一方では浄化作業が懸命に続けられているが、浄化作業の監督や責任者は「決して浄化されることはない」ときっぱりと断言しているからそら恐ろしいことである。近くのコロンビア川から取水している市の水道に、核施設から地下水を通り、水道水はいずれ間違いなく核汚染されるであろう。その時水道局は一体どう判断するのだろうか。創ったアメリカでさえ実態は、深刻な核汚染で困っている国家なのである。 つまり広島・長崎で、幾ら声高に反核を主張しても、アメリカの新聞や国務省では一切ニュースとして取り上げられることはない。それどころか、オッペンハイマーと一緒に原爆を開発した科学者が広島を訪れた時に発した言葉は衝撃的で忘れられない発言であった。「日本が戦争をやめなかったから、原爆を使用するしかなかった。お陰で終戦出来たんだろう。我々アメリカ人のどこが悪いのか、当然こうなってしかるべきだったんだ、何一つ疚しいことはない」とキッパリ。しかし原発、或いは核施設によって残存する放射能廃棄物は想像を遥かに超え、地球全体規模の生物汚染の最も大きな原因として、人類の悲劇をただ黙認しているかのようであり、我と我が身をも許し難いように思えてならない。あのチェルノブイリ原発事故もそうだが、1991年の湾岸戦争でアメリカは約500万㌧、そして翌々年のイラク侵攻でアメリカが、何と約2000万㌧もの劣化ウラン弾をイラクの天空から撒き散らせた。劣化ウラン弾は戦車の分厚い壁や地下深く入った軍事施設を破壊するのに最も適当であったからだと。それでも今も軍部や政府筋は核兵器を使ったとさえ公式的に認められていない。何と言う傲慢さだろうか。そしてイラク侵攻後から、イラク国内で突然乳幼児に変化が起こり、眼球がないとか片足がないとかの奇形児が生まれたり、白血病や乳ガン患者が激増し、信じられないような複合組み合わせガン患者も合わせて、何とそれまで通年の180倍にも急激に激増したデータがある。チグリス・ユーフラテス川河口から取水し、歴史上ずっと営農して来られた人々は、環境が被爆していると知りつつも何一つ手当てすることが出来ないでいる。野菜や果樹は通常より450倍もの放射性物質を摂り入れる性質があるが、それを摂取するしかないのが現状で、灌漑用水のみならず飲料水としても川の水は当然核によって酷く汚染されている実情なのである。その結果が、多くのガン患者や白血病や複合ガン患者が驚くべき多数出たのに対し、長年にわたる経済封鎖のために抗生物質(特に核開発につながるとして)などの薬品は圧倒的に少なく、否ないと言っても言い過ぎではない。その上抗体に極めて弱い子供たちや、生殖機能を数多く持つ女性や染色体を通じて母胎が侵されていることなどを余りにも知られていない。知らされていない。アメリカの国家体質は、派手なアクションを売り物のハリウッド活劇を観ても明らかなように、何か一つの正義があれば何をやっても許されるような精神的風土であるためだろうか。原住民を抹殺しながら入植して来た暗い過去の歴史を持つ国家ならではのことである。多少の犠牲は当たり前で、何とも腹立たしい限りである。
<日本の戦争責任の原点> 今度の戦争はでっち上げた盧溝橋事件から日中戦争は始まったとよく言われているが、僕は全くそうは思っていない。そしてそうなるのが運命だったなどと言う運命論者で済まそうとも全く考えていない。その遥か以前から兆候があったと指摘したい。明治4年、公家出身の岩倉具視を代表とした大規模な使節団、所謂岩倉使節団一行はアメリカに渡り、或る思惑を携えていた。横浜で江戸末期の1858年7月に締結された日米修好通商条約(完全なる不平等条約)の見直しを、国家同士対等の立場である条約へと改変もしくはやり直しを迫りたかった。その条約に、関税権と領事権の二点が甚だしくなかったからである。関税権がなければ国内は混乱する坩堝となるばかりである。領事権がなければ、外国人の犯罪を日本国内では裁けないからである。一行はアメリカの方々で熱烈な歓迎を受けたものの、首都ワシントンD・Cでは一瞥されただけで、あっさり一蹴され、まるっきり相手にされなかった。天皇の国璽刻印がなく、一行を全権大使と受け取られなかったからである。無論大久保と伊藤の二名が、四ヶ月の永きを掛け太平洋を往復し、それを取って来たのだが、時既に遅く話し合いは終結していた。そこで一行は世界実情を見学へ使節団の目途を切り替え、アメリカを後にした四人(+大久保利光・伊藤博文・木戸孝允など)を筆頭に、実に大勢で12ヶ国を歴訪するに至る。イギリスのタイムズ紙は一行を評して「中国とは全く違い、先進諸国の文明や産業を謙虚に学んで吸収する大いなる意欲がある」と絶賛し論評している。一行は各国の先進技術や軍備や資本のシステムさえ勉強することとあいなった。彼らは驚きの目を持ってつぶさに見学し、取り入れたい意欲がみなぎっていた。そうして一行に最も印象深く衝撃を与えたのは、ドイツを一国家として統一を成し遂げた時の宰相・ビスマルクであった。「大国の論理、つまり覇権主義の妥当性と、強きが故に弱小国家を踏みにじることが出来る論理と弱小国家は得てして受け入れ難い伝承を先に重んじることとの違い、そしてその強さの背景には軍事力が必須欠くべからざるもの」をはっきりと教授され指摘されたのであった。そうして1年9ヶ月の長き視察を終え、一行は日本に帰った。 この後、日本は「殖産興業」と「富国強兵」の二大看板を旗印に掲げ前進することになる。直後の井上馨は文明開化を徹底して推し進め、かの有名な鹿鳴館を建て、毎夜各国の大使級要人などを接待し舞踏会を催し、銀座など表通りは華やかな煉瓦作りの洋風建物(通りの一面だけ)が出来、ドイツからドットなどの新進気鋭の設計者を招き、官庁の中央集権を進めた都市設計に掛かった。無論海軍を中心に急激な軍備の増強も果たした。そして手始めにその時アジアで唯一の鎖国を守っていた朝鮮半島に軍艦を出し、李氏王朝の混乱に乗じ、鎖国を解いてみせたのだった。朝鮮とは、斎物浦条約(さいもっぽ=観名 チェルボ)の他、他のアジア諸国がそうであったように、不平等条約の極みである日朝修好条規を締結している。そもそもこの辺から可笑しいのだが、属国であったはずの朝鮮が不平等条約によって取られたと言う憤慨が、清王朝にはあったのだろう。表向き朝鮮は独立国家であるとしたこの修好条項の中身に酷く憤慨したのだった。そして間もなく日清戦争へ突入して行く。連戦連勝で、日本軍はあっと言う間に清王朝を打倒し、下関・春帆楼において下関講和会議が開かれ、澎湖諸島と遼東半島と台湾の領有権を獲得する。2億両(テール)の倍賞も得た。世界は海軍で圧倒的な軍事力を持っていたとされる清王朝がむべもなく敗戦したとなると、世界中が蜂の子をつついたように、中国本土全般にわたって、列強各国は租借権と言う名目で全土を実行支配しチリジリとなるばかりの中国・清王朝末期であった。そこで欧州列強諸国は三国干渉と言う疑義を日本政府に突き出し、遼東半島を日本が手放すや否や、即刻ロシアがそこを租借し、欧州列強の好き放題な国家となって行った。今にも列強諸国の分裂国家になるところであった。あらんことか日本からしたら眼の上のタンコブのようなロシアが南下するのを看過出来なかった日本は、遂に軍隊を出動させ激突する日露戦争が勃発してしまうことになる。圧倒的と思われたロシア軍、特に無敵艦隊視されたバルチック艦隊37隻は、小回りの利く日本海軍に散々苦しめられ、そのうちたった3隻だけがウレジウォストックに帰れたと言う。「元寇」に続き、「神風伝説」が生まれた瞬間の戦争でもあった。日本軍の大勝利で、日本国民は熱狂し歓喜した。但し日露戦争は日英同盟を後ろ盾に、アメリカの銀行王フッツから、資金の大半を出して貰った背景があったことを明記しておく。更に欧州列強の植民地支配を、小さな国家である我が国が保証し担保したことも断じて忘れてはならない。アジア諸国への認識や配慮が甚だ希薄だったことが、その後大きく火種を残したことは言うまでもない。性急過ぎるほど性急に薄っぺらな西洋化のまま、列強諸国と肩を並べたという勘違いは第二次世界大戦で、日本が手痛い敗北を喫するするまで、誰もが気付くことはなかった。但しそのことに逸早く気付いていたのは、アメリカの哲学者デューイや、あのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や、ポルトガルからやって来た外交官・モラエス(本国へ「日本通信」として送っていた)などで、早くからいずれ手厳しいしっぺ返しを喰らうだろうと予見していた。 僕は日本近代史の中で、日露戦争の後始末が日本のターニング・ポイントとなったのではないかと、今でもそう推測している。急いで西洋化し、列強に追いつけ追い越せ一辺倒で、実にこの後列強各国と条約を締結し直し、朝鮮半島の領有権を認めさせ、漸く対等で各国との条約を締結し直したが、列強各国の利権や覇権をも認めたものであった。アジアの諸国は列強各国から植民地主義の只中におかれた中で、日本のみ列強各国と並ぶことを考えた明治政府を、日露戦争終焉直後、一時熱狂的に強い日本を賛美していたアジア各国は、すばやく落胆のドン底に落とされた時間は僅かなものであった。対仏、対英、対露、対蘭、対独など、多くの植民地支配主義に何故呼応して日本は列強と肩を並べらければならなかったのか。日本には余りにも資源が乏しい国家で、泥棒のような植民地支配を模倣しなければならなかったに他ならないが、ドイツ帝国時代の国家像をお手本とした岩倉具視一行の欧米視察団の影響が強かったからでもあるだろう。最悪なことに、朝鮮半島の併合の道をひたひたと走っていた所為でもあった。アジア諸国の中で、植民地にならず、日本だけが突出して西洋化出来たことに、アジアの人々は全く無縁であった。反日感情の芽生えと同時に、アジア各国の反日感情の原点は、ここにある。すべてはそこから出発している。そうしてその時点から、太平洋戦争における軍部の独走、強いて言えば暴走まで一貫して許してしまうことになるのだ。愚直な一般国民には何一つ詳細に知らせることなく、軍部のセクショナリズムと、殆どの情報を非公開のまま、完全に昭和天皇の時代に無条件敗戦するまで、本当の真相までは程遠く、国民は殆ど気付くことはなかったと言えようか。急ぎ過ぎた時代に翻弄されたのは一般の国民であり、戦死者の四分の一は実に民間人であったのだから実に恐ろしいことで、更にもっと恐ろしいことは躍らされた日本国民にだって大なる罪があったのではなかろうかと考えたい。ただ知らなかっただけでは全く済まされることではなかろうか。
<非核三原則の形骸化とその恐怖> 唯一の被爆国として、そして憲法第九条において、非戦国家であり、非核三原則を堅持するのは当然のことである。僕はどちらかと言うと決して左翼ではないが、あの白洲次郎が心配したことが明らかに現実味を帯びて来て、憂慮している憂国者の一人である。十数年前、僕たち主従は暑い真夏の盛りに、あの広島の空の下にいた。その日もこんなに澄んだ青空であっただろう。ピカッと閃光が輝いた瞬間、真っ赤な雲がリング状に広がり、そのリングの中に真っ白いキノコ雲が二重三重と重なって広大な空に向かって立ち上って行く。そして真っ赤な大きな太陽のような雲となり広島の空を覆いつくしたのだあった。一瞬にして非戦闘員である民間人やあらゆる生命体が虐殺・抹殺されることとなった。その現場にいなかった方々でさえ原爆投下後、医者や看護士や身内の方々として当地を訪問し、大勢の方々が体内被曝することになった。資料館で散々泣いた僕たち二人は、その脚で長崎へ。ここでも平和祈念塔へ向かって歩き続けた。クリスチャンが圧倒的に多く心優しいこの長崎の地へも容赦なかった。広島(広島平和記念資料館)でも、長崎((国立長崎原爆死没者追悼平和記念館)でも、それぞれの平和記念館に眼をそむけることなく、滴る涙を押さえかねつ見続けた。二人とも完黙したままで、そして最後薩摩へ。知覧町の特攻平和記念館へと。敗戦を百も承知で、敗戦を目前にして多くの若者を死出の旅に旅発たせた特攻隊の舞台となった知覧。若者は靖国で安らかに逢おうと互いに誓い合いながら、片道燃料しか入っていない飛行機の操縦桿を握らせたのだった。たったひと握りの将校のために、まるきりの憤死であったのだ。まる一週間ほど、僕たちは喋ることは殆どなかったように思う。被曝者追悼へのと断固たる非戦の誓いは表裏一体そのものであったと強かに知る羽目となったのは言うまでもないことである。 「君は、広島・長崎の平和記念館を観たことがあるかい、観ようと思わないかい!」 いつだったかNHKテレビの実況中継で流された被爆者と原爆を研究し製造したアメリカの核科学者の両者が、広島の現地で対談している番組を思い出していた。その時アメリカ人核科学者が発言をした。原爆投下は誤っていたのではないかとの質問に対し、その返事は、「全くの罪悪感もないし、投下されたのは、日本軍が早く投降しなかったから仕方がなかったんじゃないか、悪いのは日本ほうだった」と殆ど悪びれた様子はなかったように記憶している。正義のためなら、どんな手段を使ってもいいというのがアメリカ人の一般的常識というか風潮なのだろうか。こんな雑駁な国家に成り果てたアメリカに対しても、僕は希望を捨てていない。無責任な評論もしない。だって僕たちには、僕たちの後を託す子供たちがいる限り。従って原爆を製造したアメリカ人科学者の証言に、僕たちの未来を担う日本国の命運を果たしてすべてを委ねていいものかどうかを深く考えさせられた一場面であったように思う。そうして僕たち若者に戦争の影が極端に薄くなりつつあり、平和ボケの渦中にあって、貴重な戦争体験がいつしか風化してしまうのではないだろうかと、心配と危険性がないわけではない。 否、それは若者だけの問題ではない。国際報道を荒っぽくしか報じることがない新聞各社も、テレビ局各社も情けないと思う。日本が何故戦争を繰り返さなければならなかったか、そして戦後どのような歩み方をしたのか、国内々のニュース中心で汲々として報道している各報道機関の諸君!あなた方が報じたことはアメリカ国務省には無論のこと、世界には先ず報道されることがなく、殆ど重要に扱われていない事実にどのように思っているだろうか。立場が立場であるだけに実に腹立たしく思う時がある。グローバル的値打ちある報道が圧倒的に少ないことに深く反省すべきではなかろうか。暑い真夏に衆議院総選挙があり、熱戦を繰り広げているが、どこの政党がどうとは言わない。でも政治の根本を先んじて知っているのだろうか、或いは意図的に封印しているからなのか、分からないことばかりで、率先して根本的諸問題に対し積極的な発言をして欲しいと心から念ずるのは、当然のことだろう。政治家諸君!僕たち国民は馬鹿ではない、まやかし半分の福祉だけで判断しないことを心得よ!政治家なら真に国際人としての、僕たち日本国民の立ち位置をはっきりと示すべき時である。日本は未だに精神的鎖国を続けていると揶揄され見做されている。国際事情即国内事情であると言うのは今度の国際金融危機でしっかりと学習出来ているはずなのに、あちらでもこちらでも国際感覚の音痴ばかりが眼について仕方がない。世界からどのように見られているかを、少しは反省すべきであろう。あの軍国主義は世界を殆ど知らなかった帰結であったのだから、然るべき方は大いに反省をして戴きたいものだ。 非核三原則ですら今や風前の灯火常態で、「持たず、作らず、持ちこませず」と言った文言は既に空洞化している。中でも「持ち込ませず」はあってなきがが如くであるだろう。アメリカ海軍基地にある大型航空母艦に艦載された飛行機に核弾頭が積載されているのは至極自然な成り行きで、日本政府は米軍に査察どころか、一切聴聞すらしていないのではなかろうか。ならばアメリカ軍の核の傘の中に入ってしまえば、近隣諸国に核武装があってとしても大丈夫だという能天気な議論がどうやら大手を振って歩き始めているかのようである。集団的自衛権と言う不可解な文言の中に、とっくに組み込まれているけれど、憲法と照らし合わせれば畢竟矛盾の山だらけではなかろうか。知らないうちに恐ろしいことにはまってやしないだろうか。
<体内被曝及び低線量被爆の恐怖> ここまで書くと、僕はコミュニストか社会主義者かと疑われかねない。イデオロギーにドップリ浸かりっ放しの日本共産党こそ最大の能天気集団で、大嫌いである。かつての社会党であった社民党は現在の北朝鮮労働党(金正日独裁政権)と永く友党で、拉致問題などを含め、最低でも自己総括しなければならないのに、一切知らんぷりをして土井かた子は消えてしまった。今でもそのままであり、無責任の極みである。郵政民営化に今でも真反対の国民新党は論外である。民主党は重大な責任を背負っている。だからこそ党を挙げて一枚岩になってくれるだろうか。新党を立ち上げた渡辺氏の「みんなの党」はキャスティング・ボートを握れれば大いに賛辞を送りたいものだが。公明党は国民目線を守って自民党と一緒に闘っているものの、野党になった暁には果たして変幻して行くのだろうか。自民党は自ら永年に亘って蓄積して来たオリのようなものを、自らが自らで反省し出直す覚悟があるだろうか。と、まぁ僕は現在無党派であるかも知れないが、自分では積極的無党派層の一人だと自認したいところである。でもさほど自慢することではない。 翻って本論に戻そう。日本の法律に気化した原子力は定めなき聖域に入っていて保証されているのに驚く。煙は出ないのに、何故かどこの原子力発電所(以下 原発)にも煙突がついている。そこが問題なのである。アメリカ・ボストン郊外で被爆した米兵を永年診ているドンネル・ボードマン医師は、『ヒバクシャ・ガイドブック』なるものを発行しているが、中に非定型症候群について書かれている部分がある。「どの病例にも当て嵌まらないのが被爆の実態だ」として、低線量被爆の症状を表現し、「たった一つの特徴は<診断困難>と言うのが低線被爆の有力な証拠である。これは今日の生物全体の疫病であり、或いは終末的なものかも知れない」と、驚くべきぞっとするような証言がなされている。低線量被爆とは、間接的に体内被曝することで、戦後の日本でも数多く発生し、患者諸氏は国内に限らずアメリカやブラジルにまで人体ごと拡散されている。誤解なきように申し上げておくが、被曝者に対して一切差別はない。但し日本国内にいれば充分な治療が受けられるだろうと言う意味で言っている。無論劣化ウラン弾を莫大な数量を使用されたイラクでは言うに及ばず、テロ掃討作戦と称してフィリピンやアフガニスタンで原子力廃棄物兵器が平然と使用された。そして驚くべきことに、空中散布されたアトミック(放射性物質のミクロン単位の粒)の浮遊物は世界中を消え去ることなく遊泳することだ。最先端科学ではアトミックは、我々の遺伝子を傷つけ、最低四世代にまで悪影響を及ぼすと言う。曾孫の代まで隔世遺伝をするとされているから驚く。 9'11以降テロとの闘いをいい口実にし、前大統領ブッシュは劣化ウラン弾まで使用して、対テロ掃討に全精力を費やして来た。まさしく戦場では米兵を含めて人体実験そのものであり、テロはそう易々と解決するとは思えない。貧困の格差と宗教的差別がある限りである。アメリカの小学校では、核爆弾を日本の無条件降伏のために使われたと教育され、高校以上では対共産主義対策だと教育され、大学ではテロとの闘いで必須だと教育を受けて来られたアメリカ国民も実に可哀想である。真実を知らされることなく、尊敬する大統領が発した言葉を鵜呑みにするしかないのか。そんな不自由な大勢なのか、驚くべきことばかりである。自由自由と全く一元的であり、日本の中央銀行にあたる日本銀行のような、アメリカの国銀「連邦準備基金」のグリーンスパン総裁は一切市場にからむことはなかった。ノーベル数学賞を戴けるほどの高水準の学者たちが一時一度にどっと金融市場にその人材が流れた。そしてその人たちが作ったシステムがあの悪名高いサブプライム問題そのものである。この度、そんな金融市場の化けの皮が思い切り剥がされた結果となり、世界同時金融危機を迎えることとなった。アメリカのドル神話が崩壊した瞬間でもあり、この際二度とこのようなことがないよう、金融市場に必要で大胆な介入をし、即刻建て直さなければならない。ドル仕立てそのものの仕組みが最早古い体質の体系であると露呈された一瞬である。社会主義の国家は資本主義国家のいい部分を取り入れ、そして逆も真なりであろう。境界線があること自体可笑しなことではなかろうか。幾ら自由とは言ってもやっていいことと、決してやってはならないことがある。何もかも見直す素晴らしいチャンスでもありうる、「Yes we can!」とね。 再び横道に反れたようだが、あの冒頭で述べた通り、アメリカ・ワシントン州ハンフォードでは1942年からプルトニウムが製造されたが、何と1949年にはそこで人体実験さえされていたと言われている。気象観測用風船にプルトニウムなど多数の核物質を入れ、空中散布も行われた。浄化不能なハンフォードを今は完璧に隠蔽するかのように突如閉鎖されて現在に至っているが、口を漱ごうとしても殆ど無益なことである。元に戻るには46億年掛かっても不可能だとされているからだ。製造者自身が苦しむ結果となろうは何と言う因果なことであろう。2003年に公開されたドキュメンタリー映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』(鎌仲ひとみ監督 グループ現代制作)では、永年自らが被曝者で被曝者専門の医師である肥田舜太郎医師(元広島地区軍医であった)が、ハンフォードを訪れた時の映像を捉えている。更に肥田先生は放射性物質の遺伝子を永年アメリカで研究なされた遺伝学者・市川定夫先生に問い質している場面もある。今、我々が恩恵になっている原発のことだ。青森県六ヶ所村にあるプルトニウム再生工場では全国から集められた使用済み核燃料が、ここ一箇所に集められ再生出来ると言われているが、北海道・東北四県に圧倒的多数で乳ガンや幼児異状が発生している現状を、折線グラフを前に、お二人で分析しあい確認をなされていた。驚くべきことである。64年前の出来事だけではないのだった。原発をして今も、セシウムやテクチウムやヨウ素131など核廃棄物が飄然と排出されていたのだ。あのハンフォードでは高レベル核廃棄物が何と200億㍑も存在していると言う。まさしくこれは深刻な地球温暖化問題の次元を遥かに超えていた。ハンフォード200地区は1967年に破損し、10㌧もの廃棄物は200地区から流れだし、特に酷く近くを流れ、水道水の貯水口になっているコロンビア川に地下水を通してまさに迫っているところである。 中国もロシアもフランスもパキスタンもインドも、そして北朝鮮も核実験を繰り返して来た。イランもどうも怪しい。今や核汚染は世界的にたっぷりと広がっている。一国の利害だけに拘っている場合ではない。プルトニウムは悪の枢軸そのものだろう。集団的自衛権が自殺行為そのものに変化し遅かれ早かれいずれ、その悪の枢軸(=核物質)は僕たちの近辺にやって来るだろう。現アメリカ大統領のオバマはこの度唯一の核兵器使用国であるアメリカの同義的責任まで言及し、「核なき世界を」と言うプラハ宣言を発し、核の完全廃絶にむけ実に力強いメッセージを述べられた。集団的自衛権の本家本元であるブッシュ・ドクトリンを止めようとしている。今回の広島でも長崎でもオバマ発言が大いに歓迎されたことである。金の亡者がウヨウヨいて、金融利権と石油利権と武器利権で成り立っているような自由(?)主義国家アメリカで果たして本当に実現可能であろうか。多少の疑義を持たないでもないが、でもあのオバマ大統領の勇気ある決断に取りあえず万雷の拍手を送りたいものである。リンカーンやケネディがそうであったように、足元のテロには充分気をつけて戴きたいと心から念願してやまない。あなたが既に被曝者だとしたら、そうは思われませんか!そして後世に、核そのものや核廃棄物などの瑕疵を断じて残すべきではない。原発も今や世界では操業ストップが大勢であるのに、日本では更なる延長が決まったばかりである。エネルギー問題や食糧問題や農業漁業問題など重要課題を、今回の選挙に立っている何人かの政治家がこと細かに説明するのだろうか。いい加減なマニフェストに誤魔化されるほど一般の人々はそう馬鹿ではない。それにしても大政治家が余りにも少なくなった日本、淋しい限りに他ならない。白洲次郎は、「戦争に負けたんであって、奴隷になったわけではない」と唯一従順ならざる日本人として、往時のように大国ばかりに気を取られることを懸念した結果の言葉であった。今こそ白洲次郎に耳を傾ける時であろう。 累々たる戦争犠牲者、原爆の計り知れない多くの犠牲者や体内被曝者や隠れ被曝者、幾百万の御霊を心から追悼し、何とか僕たちの時代において、「人類滅亡」の危機を避けなければならない。それを御霊へ堅くお誓い申し上げ、寸分の供養となるだろうか。あらばどうか、オバマ大統領を必ずお守り下さりまし!南無大師遍照金剛!
今日のBGMは 夏川りみさんの定番にして名曲「涙(なだ)そうそう」です 23 giugno 沖縄慰霊の日にささく
土田麦僊の白百合図 (スケッチ)
沖縄慰霊の日にささく
今年で戦後64年目にあたり、今日が沖縄では、「慰霊の日」となっている。日本軍の総司令官である牛島満中将が自決し、組織的戦闘が壊滅し、沖縄での実質的戦闘が終わった。その日をもって沖縄県では戦闘終結の記念日と定め、亡くなった累々たる県民の御霊を慰霊するための記念日となっている。沖縄では学校を中心にお休みとなり、毎年この日、最後の激戦地となった糸満市摩文仁丘にある平和祈念公園では、沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれ亡くなった一人一人の名が記された平和の礎(いしじ)がある「戦没者慰霊の日」で、戦没者に対する慰霊と平和を願う祈りの行事が行われている。 唯一日本国での地上戦で、たった3ヶ月間で、日本軍・沖縄の民間人・更に合わせて米軍の犠牲者が20万人も出ているが、何と言っても最も痛ましいことは沖縄の民間人の犠牲者である。3月27日、米軍が上陸をした那覇から35キロ離れた渡嘉敷島では、翌28日に島の北側の谷に700人ほど土砂降りの中を軍を頼りに山中を歩き、やっと辿り着いた場所で、集団自決が行われた。28日午後3時村長が「天皇陛下バンザァ~イ」と叫ぶと、一斉に日本軍から手渡された手榴弾を点火し自爆したのだった。ところが手榴弾の殆どが着火せず、仕方なく親兄弟を、鉈や包丁や、或いは木の小枝などを使って、殺しあわなければならなかった。陵辱されるなら死を選んだのだった。その背景には、日本軍から徹底して教えられた軍規の「戦陣訓」があり、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」。鬼畜米軍は民間人に何をするか分からないからと徹底した強い喧伝の結果であった。従って、自決命令とも受け取れた人々は、そうして親兄弟を殺すしかなかったのだ。土砂降りの中を行軍した住民700余人、生きて捕虜になったのは実にその半分以下の者であった。そこは今でも集団自決の玉砕の場となっており、島では3月28日に慰霊祭が行われている。無論多くの場所で、集団自決が行われた。但し渡嘉敷島の例は恐らく最大規模ではなかろうか。捕虜として救われて見ると、何と医療から食料も与えられ、我が手で殺した身内にどんなに切なく思ったことだろうか。 本土防衛の最後の拠点として沖縄があった。そんな沖縄に、観光のみで出掛けるのは如何なものだろう。今でも親兄弟を手に掛け死なせた方々が生きておいでである。戦後言うに言われぬ辛酸を舐め、子孫にさえその時の窮状を口にすることが憚られた。何と言う悲劇であろうか。太平洋戦争に突入したのは、現在の北朝鮮のような状況で、経済的封鎖を受けていた。従って大多数の国会議員が戦争に賛成し突入したのだが、勝利したのは僅かに半年のみで、その後は敗走につぐ敗走であった。その後も厳しい報道規制の中、国民は一切実情を知らされることはなかった。沖縄での戦闘は言わば最後の決戦であり、そして広島・長崎への原爆投下に続いて行く。特に昭和に入ってからの軍部はまさしく独裁軍部であり、敗戦をいち早く認めれば、そこまでの犠牲はなかったものを誰一人として反戦を口にすることが出来なかった。文壇の大御所・志賀直哉は戦時中軍部にひれ伏し、戦後民主主義になった途端に、民主主義を口にした。高村光太郎も戦争を賛美した。戦後の光太郎は岩手山中に独り入り独居し出て来ることはなかった。わざわざパリから呼び寄せられ、戦争絵画を描かされた藤田嗣治は、戦後、戦争参画者として誹謗中傷され、再びパリに逃げ帰るようにして去り、その後全く日本に帰ることはなかった。殆どの文化人が戦争に加担したのだが、我が太宰治だけではなかったろうか、一切戦争には協力せず、戦時中独り「御伽噺」だけを書いていた。 話は違うが、最晩年の星野道夫は沖縄を訪れている。アラスカの対極軸として相当気に入ったようである。僕もこの20年来沖縄病に掛かりっ放しである。御嶽信仰研究で飽きることがない。方々素敵な場所でいっぱいで、フーテンの寅さんだって、最期リリーと過ごしていたじゃないか。
御嶽(ウタキ)信仰の聖地
① 沖縄には沖縄独特の信仰形態があった。御嶽(ウタキ)信仰と呼ばれるもので、言わば日本の神道の前身に近いもので、アミニズムと呼んでもよかろうか。神道成立に欠かせない形式で重要なご神事である。最も大切なのは九高島の御嶽信仰で、遥拝の原形があり、巫女はノロと呼ばれ、一種の呪術的奉仕者で、戦前徹底的に弾圧に遭い、沖縄独特の信仰は滅んだかのように思われる。海人は男、神事は女と言われ、殆どの神事は女性が司り、巫女(ノロ)は神懸りもしたようである。その最高峰の御祭である「イザイホー」の御祭は、琉球王朝の信仰である「おなり信仰」の一つでもあり、近年その存続が危ぶまれているが、国家神道として一億総玉砕を掲げる軍部としては、あの伊勢の神宮だけを認め、そうして洗脳せざるを得なかったのだろう。だがこうした一元性は必ず危ういものになるのである。僕は、神道も信じているが、神事と人事を一つにする愚かさは甚だしく情けないのひと言である。宗教を我がモノとするのは、自然を我がモノとし、自在にするという人間の傲慢さに他ならない。明治政府がとった廃仏棄却の制度と言い、あのバーミアン遺跡を爆破したタリヴァンを決して笑えない愚行であったし、軍部が独走して起した盧溝橋事件や真珠湾攻撃など、今の追い詰められている北朝鮮のようなもので、過去の清算が本当に出来ているのだろうか。ご遺骨の収集すら中途半端なままである。琉球王朝を含め、民間の習慣・習俗まで根こそぎ滅びの道へと追いやったのは一体誰だったのだろうか。 ② 更に多くの米軍基地を抱え、日々痛恨の極み未だ消えぬ沖縄の人々の苦痛を、僕たちはもっと真摯に考えなければならないだろう。戦後もずっと沖縄県民は苦労をさせられた。レイプ事件や交通事故など、日常茶飯事にあった米軍の愚行を押しとどめることが出来なかったが、つい最近日米地位協定が見直されている。でも全く不十分で慙愧に耐えないものがある。日米不平等条約であった嘉永7年締結の、あの「日米和親条約」の根本は未だに生きているのではないかと思われて仕方が無い。日本はまだアメリカの占領地であるかのようだ。何もかもアメリカ追随の時代はそろそろ脱却して良さそうなものである。アメリカから輸入された自衛隊の戦闘機は一機たりとも、対地爆撃装置が付いていないものばかりである。憲法第九条は護持するものの、我が国は我が国で主権を守るべきで、非核三原則とともに一考を要する時期ではなかろうか。日本は未だに独立国ではない。沖縄を見れば見るほど、そのことを禁じえないのである。アメリカの経済は極端に疲弊し、あのアメリカで国民皆保険制度ではないと言う。そういう国家にすべてを委ねて果たして、この先大丈夫なのだろうか。一国依存ではなく、先ずアジアの国々と手を携え、そしてユーロとの連携も深めて行くべきいいチャンスの時ではなかろうか。 ③ 終戦間近になって参加し北海道を我が領土と主張したロシアの姑息さは呆れてならない。北方四島の返還は当然のことであるが、日本人はあまりにも国境の意識に遠い。フランスとドイツ国境にあるアルザス地方は史上どれだけ翻弄されて来たのだろう。大英帝国とアイルランドの紛争は日本における平安時代から続いた重要な課題であった。近年ベルファストでは又ぞろきな臭い匂いがしないでもない。どの国にもそれが必ずあり、長い鎖国制度を採って来た日本には国境の意識にほど遠い。広い海を含めると、我が国は世界でも名だたる大国である。竹島問題も尖閣諸島の問題も、南京大虐殺問題や他の問題と同時に真正面から論じて行くべき課題の一つである。あのドイツでさえ欧州全土に3000箇所の慰霊碑を建て、賠償金を支払って来たのだ。海洋国家たる聊かの危惧を、残念ながら我が日本に抱かざるを得ない。いずれにせよ、沖縄の慰霊の日に改めて恒久平和を誓いつつ、きちんと解決すべき問題は山積していることだろうと思う。
御嶽(ウタキ)信仰の聖地 久高島遥拝所その他
沖縄は美しいちゅらの海に囲まれた素晴らしい島々である。県花デイゴを始めとし、たくさんの花々や天然記念物の動植物がいる。珍しいお祭の形態はワンサカある。非常に豊かな自然と、旅する者すべてに四国のお接待のようなことをする島もある。日本で最初に櫻が満開になるのは沖縄である。蛇三線の素朴な音色や賑やかなカチャーシーの踊りは我も我もと踊りたくなる。元来朗らかな県民性である。人情が篤い。そんな中で毎年成人式の時、目に余る若者の蛮行があるが、あれだって馬鹿にしてはならぬ。若者に就職口が殆どないからだ。ハコ物政治ではなく、ではどうしたら沖縄の若者が生きられるように出来るのか、あの画面を見て批判するだけではなしに、もっと多くのことを考えるべきだろう。未だに世界に類例がないくらいの米軍キャンプがあり、本土のために圧倒的犠牲を強いられているのだから。観光に行くにも移住するのもいいかも知れないが、過去の歴史の中で、今もって苦しんでいる方々を決して忘れるべきではないだろう。これは日本の恥部であるに間違いはない。沖縄の皆さまには、どうしたら僕たちがいいのだろうかとふと思うことが多い。
ちゅらの花 県花 デイゴの花
今まで森山良子・「さとうきび畑」の歌をBGMに使用しました。本日慰霊の日があったからで、ご了承を! 04 giugno こうのとりのゆりかご NHK新番組「アレ 今どうなった」より
主人の旅先での走り描き 銘に「初夏を行く」
こうのとりのゆりかご NHK新番組「アレ 今どうなった」より
普段は日中の家のことや勉強のことで、夜になるとクタクタになるらしく、殆ど杏が休むのと一緒に眠ってしまう妻である。その夜も早く寝てしまったが、途中目が醒めて、僕の部屋に入って来た。偶々放送されていたNHK深夜番組「アレ 今どうなった」を一緒に観ることになった。話題は2年前に創設された、所謂「赤ちゃんポスト」のことである。人事には思えない僕たちは番組を注意深く観ることにした。 熊本県熊本市にある医院療法人聖粒会 慈恵病院の理事長先生・蓮田太二氏が始めた日本初の試みであった。当初その「赤ちゃんポスト」について賛否両論が激しかったと記憶している。それからまる2年経った現在、男児26名、女児16名預かったと言う。そのうち11件、親族などから接触を受け、4人が引き取られて行ったと報告されていた。病院では当初育てられない赤ちゃんのイノチを助けるために創設されたものだった。残念だが、家庭内暴力や直接我が子に手を掛け死に至らしめる事件は今も後を絶たない。痛々しいことに、臍の緒がついたまま公衆トイレに捨てられていたニュースもあった。でもそこは匿名で赤ちゃんポストに入れるから、困った女性はどうしようもなくて、その処理のために、止むを得ず預けて行くのだろうが、その実態をよくよく観ると、何とも曰く言い難いものがあったのだ。 主に出演されていた看護部長の田尻由貴子婦長は証言する。病院に向かって、ビルの右側面に、その赤ちゃんポストがあり、それは縦50センチ、横60センチの鋼鉄製の扉であり、その直ぐ傍には常時36度Cに保たれた暖かいベッドが置いてあるが、その部屋の中は撮影厳禁となっていて詳細は分からない。そして24時間体制でナースステーションに助産師とナースが必ず最低3人はいるそうである。部屋に赤ちゃんが入ると、ナースステーションのベルがけたたましく鳴り、即戦対応にあたるという。先ず事件性がないかどうかを調べるために警察に連絡し、検証後直ちに医療処置が施される。その後児童相談所を通じて、乳児院にひと先ず預けられる。それから18歳まで児童養護院に移され、専門家によって丁寧に育てられていくようだ。それと裁判を経て里子に出される例もあり、その際里子の子はそのお宅の実子となってしまうので、幸か不幸か分からないが、実の母親は一切の権利を失ってしまう。中にはほっとする人もいるが、ずっと苦悩する母親もいるようである。又或る夜に赤ちゃんポストを探している風で、夜中病院の正面入り口を行ったり来たりする女性がおり、婦長は病院内に優しく導き入れ、乳房にすがる子を観ながら胸が詰まってしまった。そして婦長は何も聞かず「辛かったねぇ」とひと声掛けてあげ、休養室と食事を出したら、それまで何も喋らなかった女性がワンワン泣き出し、ポツポツと住所や名前などを話し始めたと言う。そうして翌朝一人で育てるからと決心を固め、赤ちゃんを抱いて去って行った事例もあると言う。更に24時間体制で、電話相談を受け付けているようで、或る時掛かって来たのは東京方面の女性からで、聞くと既に陣痛を起しているようだったのだ。そこで婦長はその電話を繋いだまま、別な電話で都心においてそれら事例のヴォランティアをやっているご夫婦に連絡し、その女性と待ち合わせする約束を取り付け、それで何とかその女性と逢えて、直ちに一緒に産婦人科がある病院に駆けつけ、翌朝無事に出産出来た模様だった。驚くことに、収容した人数の凡そ3倍の電話相談があると証言する。でも今では非難めいたことは一切聞こえなくなり、寧ろ全国にこうした支援の輪を広げて行きたいと話されていた。 こうした例に似通った事情がありそうで、殆どが女性一人で悩み続けていること、或いは相談する仕方やそういう場所を知らないで悶々と苦悩していること、周囲の目線が冷たくヒューマン・リレーションに甚だ欠けていること、父親の無責任さのこと、それらのことが共通して挙げられるようである。中学時代に家出をし、何の知識もなく彷徨い、オトコに身を委ね、孤独なうちに妊娠してしまう20歳未満の女性のケースが如何に多いことや、妊娠を知るや、女性が持っていたお金全部を掻っ攫って逃げて行くオトコもいるそうだ。何たる所業であろうか。そして何たる侮蔑であろうか。二人で観ていて、涙が出て仕方が無かった。僕たちだけが幸せであってはならないと。この問題は根が深く幅も相当にあるようで、では何から手をつけていいのか、実際となると少々戸惑ってしまうだろう。でもだからと言って無関心が最もいけないような気がする。先ず自分の周囲から注視して行くべきだろう。 政治の問題もあるだろう。社会的仕組みが決して万全とは言えない。カナダやキューバやフランスやイギリスのように医療費が殆どが無料と言う国家制度にはなっていないからだ。日本の何処が福祉大国であろうか。あの領袖のアメリカでさえ、国民皆保険制ではないから驚く。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリーで映画「シッコ」と言うのがあるが、興味のある方は是非ご一覧をお願いしたい。世界のリーダーと称している一方、厭きれるばかり医療制度がその映画で声高に報告されている。あの9,11事件で救済に当たった救命士でさえ、満足な医療を受けていないというから驚くことだ。最下層の方々にも、生きる権利と恩恵を与えるのは国家の使命であり責任であるに違いないし、日本では医師不足も深刻な社会問題となっている。捨てられた離島の医療も深刻な課題であろう。でもそれだけではなさそうである。大人の男女がどうしようが何になろうが、出来てしまった赤ちゃんは、あなた方と全く別個な人格があるのではなかろうか。イノチの尊さを当然の教育として学校教育にも多くの課題はあるだろう。特に人間にだけ限ったことではない。それからこうしてネット社会になり、隣接する世帯同士のお付き合いも少なくなった昨今である。当家ビルでは毎週一回コミュニティー・ホールで、何らかの催事がある。でもそれですら聊か少ないと痛感しているし、家主の僕自身の出席もなかなか思うように行っていないのが現状であり、自治会の皆さまに殆ど委ねっ放しが実情で、資金だけは援助する程度しかなっていない。ブザマなものである。 更に最も重い課題は女性自身のことではなかろうか。ロマン・ポランスキー監督が映画「戦場のピアニスト」を撮ったのはご承知のことと思う。あの監督が若き日のカトリーヌ・ドゥヌーヴを主演にし撮った初期の映画「反撥」はあまり知られていないだろう。最近そのモノクロの映画をシネフィル・イマジカで観たばかりだったので、是非お話申し上げたい。同監督独特のワンショットが長い長廻しの場面で構成され、サイコ・スリラー仕立てになっていたが、性に関し嫌悪感と好奇心が複雑に交錯するウラ若き女性をカトリーヌが熱演していた。あの映画にあった通り、女性は男性の数倍も、本来は孤独な部分を抱えているのではなかろうか。無論生理的な部分もあるが、ひと皮ひと皮自分の孤独性を乗り越え、漸くやっと一人前の女性になるのではないだろうか。一人前の女性になる前に、願わぬカタチで妊娠をしてしまう例がその殆どにあるように思われてならなかった。無論オトコにも半分以上責任がある。性を快楽としてのみ考えるオトコどもは最低である。簡単に流産などと言うべきではない。医師は棒のようなモノで子宮に出来た赤ちゃんの固形体を粉々に崩して堕胎させるである。それって殺人と何ら変わりないことではあるまいか。余程の医学的事情がない限り許されることではないだろう。経済的理由も、あってはならないことであるだろう。僕たちはカトリック教徒でなくても胸がジンジンと痛んで来る。その夜、朝が来るまで、僕たちは写経をした。僕たちオトコどもはウラ若き女性たちを、もっともっと優しく包み接し、それら女性特有の課題を、女性自身が乗り越えて行く何らかの手助けをしてあげようではありませんか。逆にそっとして暖かく見守ってあげるとか。「こうのとりのゆりかご」の心の輪があらゆる場面で成熟して行くことを祈って!そして新しく生まれ来るこれからの多くの子供たちの健康を願って!僕たちも、それらのことについて無責任に無関心になることを、自分たち自身を強く諌めたかったことである。
26 dicembre 白洲正子なら上杉鷹山をどう書いただろうか
九代目上杉藩主・上杉治憲 後に鷹山と号す
白洲正子なら上杉鷹山をどう書いただろうか
本日は、ちょうど10年前の本日、暮れの忙しい喧騒のうちに、ひっそりと白洲正子が亡くなった忌日である。白洲正子は西行の足跡を追って旅をされたり、琵琶湖周辺の湖北や湖西や京都の山国などを度々尋ねているし、西国三十三箇所の巡礼もしていた方であった。もし白洲正子ならどう書くだろうとか、どのような評価をするだろうかと、そんな風に彼女の厳しい視点に、いまだに学ぶことが多い。今朝も仏壇に、ハウス物ではあるが、啓翁櫻(けいおうざくら)の花ひと枝を古伊万里の花器に入れて、白洲正子を偲び捧げ、般若心経を読経させて戴いた。不図上杉治憲など、白洲正子にかかったらどんな風に料理されるのだろうと深い興味を抱かせた。藤沢周平の力作で彼の絶筆となった『漆の実のみのる国』(文芸春秋社刊)にも明らかなように、上杉鷹山は恐らく江戸時代に生きた藩主で最も偉大な藩主ではなかっただろうか。 日向高鍋藩(三万石)出身の幼名直丸が10歳の時、八代目上杉藩(=米沢藩)当主・上杉重定の養子となり、江戸上杉藩にて元服し、名を治憲と改める。折衷学者の細井平州に学び、徹底した藩主教育を受ける。九代目上杉藩主になると、その時の藩の状況は大変な状況にあり、藩を幕政に返却しそうとするまでに逼迫していた。上杉藩は会津百二十万石から改易され、三十万石として米沢に落ち着き、しかし大なる石高の時から、藩の人を一人ともリストラすることがなかったため苦しく、更に三代目の時お世継ぎ問題で十五万石まで減らされていたから、半端な窮状ではなかった。治憲は、どこからも借金すら出来ない藩の事情をよく知り、ここで思い切った藩政改革をする決断をすることになる。国許で冷や飯を食っている連中だけを特に集め、江戸藩邸内で五ヶ月に及ぶ改革案を作らせた。そしてその改革案を江戸藩邸で二年間実験した後、17歳にして愈々初めての米沢・国許入りとなった。それから『一汁一菜』や着るものは『木綿』だけだと細かく定めた藩政の改革案を次々に断行して行くのだった。無論古い重臣たちから大変な抵抗に遭うが、大殿・重定はこれを棄却、治憲を徹底して庇い後ろ盾となった。政治は民の為にあり、民が楽になるようにするのが政治を預かるものの責任であると明言し、雪国の地で育つ植物・作物を奨励し、原材料の輸出だけではなく、原材料を使った製品を量産する一大産業革命をするのだった。政治をわたくしするものを断罪し徹底してひるむことなく改革の成果があがるまで一切の妥協を許さなかった。この改革は物流のみの改革にあらず、藩内で生活するすべての者に目標を与え、学習効果とその成果を得る人間改革の道でもあった。米沢に恩師・細井平州を招請し、藩校・興譲館を再興させ、武士・町人など一切の身分差をなくして開かせたことも特筆出来る。ここであえて詳細に書くのは止めておこう。ただ一つだけ、家督は、義父・重定の実子(治憲が養子に入った後に出来た子)を養子としていた上杉治広を十代目藩主として譲り、その座を退き、52歳にして剃髪し名を鷹山と改められるが、改革はひと時も途切れることはなかった。その後の藩主にも行き渡っていたからである。その中心となすことは以下の鷹山の「伝国の辞(でんこくのじ)」という教えがあったからである。 伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した三か条からなる藩主としての心得のことである。
すべての基礎は民人にある、民人とともに国は存在するという意味である。そうして改革前十万両以上もあった借財が、鷹山亡き一年後ようやく五千両のプラスに転じたのであった。鷹山の生き様を、今目先の政局に汲々としている政治家たちにどうしても勉強して貰いたい人であるが、果たして現実の政治家には耳の痛いことばかりであろう。今日の、100年に一度あるかないかの経済危機の中で、グループ闘争などしている場合ではなく、今この危機をどうするかが一大事なのであって、頭の中は選挙のことでいっぱいであろう。そんな小者だけでは現代の正体すら見えていない。来年NHK大河ドラマで主人公として出て来る直江兼続こそ、上杉景勝から家老職として命じられ、この米沢藩を築いた最初の人物である。突然で恐縮だが、直江兼続の治水事業や、あらゆる農業施策など、治憲の目指した改革の基礎は既にこの時に萌芽していたとも言えるだろう。「越後の虎」或いは「越後の龍」として、自らを毘沙門天の転生であると信じていた上杉謙信公を始祖とする上杉家であるが、実質の最初のカウントとしての藩主は上杉謙信の養子となった景勝から数え、幕末まで十三代続いたことになり、上杉神社には各藩主の廟所が並んでいる。但し治憲(鷹山)は本来上杉家の血筋ではないがために、摂社の松岬神社に移され現在に至っているが、今もって米沢の方々は鷹山だけに「公(こう)」をつけ特別に扱われ尊敬されている。
赤い冬の実 07 aprile 勿忘草のこころに託し
勿忘草のこころに託し
ブログやネットでお知り合いになった方と、今までたった一人もお逢いしていなかったのが私の変な自慢の一つでした。でも日曜日の午後、最近あれこれネットや電話で議論している方と逢わざるを得ず、品川駅近くのホテルで初めてお逢いしました。三時間討論致しました。橿原神宮にお参りするのに、靖国神社についてはどうして不満があるのかということでした。決して不満ではないのですが、本来日本人すべての人たちから愛されて然るべきだと論陣を張りました。多分この記事も注目して御覧になっておられると思います。だから隠さずにしっかり表現申し上げます。靖国神社はお国の為に尊い命を犠牲にし戦場で散った方の御霊(みたま)が祀られているところだと心得ております。戦場に行くことがなかった東条英機以下数名の方々は指示・指令だけしていたのだから、靖国神社で祀られる資格はないのではないかと、そう申し上げました。最近東条英機のお身内の方が、靖国に入って当然だといわんばかりですが、もし私が東条英機の身内だったら、自分で東条神社を作っていたでしょう。誰か裁かれるべき人が必要だったとしたら、名誉あることではなかろうかと。赤坂にある乃木神社と同様に。一方的な軍事裁判であったにせよ、どちらにしても誰かが必ずその責任の犠牲による誉れを受け取るべきだと。私は戦犯との合祀には絶対反対だと。などなど喧々諤々、様々に真剣な討論を致しました。先さまは戦犯は断固誰一人もいなかったと主張しておられました。 時にちらちらとド満開の櫻の庭園を観ていました。「若櫻万朶(ばんだ)の命櫻かな」という回天の特攻隊員の句をふと浮かべて胸がつまっていたのです。国を思って亡くなった方々への弔意を表現するのは国家の責務だと思いました。靖国の櫻のもとで逢おうと互いに誓い合って花と散った若い命も数限りなくあったのです。でもだからといって、大音量で威嚇するように国家や国旗を掲げ街宣活動はどうかと思うと申し上げました。議論は大いに伯仲して結構ですが、言論統制するような国家や狂信的な集団だけは必要ないです、とはっきり。最近ドキュメンタリー映画『靖国』が上映直前になってドタキャン中止されたのも、何か可笑しいのではないでしょうか。監督は中国人の方ですが、日本に住んでいて日本に対するラブレターのつもりだと言っておりましたし、文化庁の後押しで作られた映画な訳で、何故どこからどう圧力があったのでしょう。愁うるべき哀しい事態です。更に私は本来日教組が嫌いなのですが、会場の貸し借りを巡ってプリンスホテルと揉めています。共産主義はつまりはひと握りの管理者の権限に集約してしまう危ない要素があって嫌いな思想(今では資本主義社会でも共産主義或いは社会主義の要素も多く取り入れないと福祉など多方面でやっていけませんが)ですが、だからといって会場の賃貸を一旦受け付けておきながら、日教組を断ってしまうとは情けない話で、多分それもどこからかの圧力があったからでしょう。そのホテル側における豹変ぶりには全く同意出来ません。重要なのは誰にとっても表現の自由や会合の自由や結社の自由が保全され保障されているということです。勿論公序良俗が前提ですが。 結果から申し上げますと、彼らとはどこかで分かり合えて別れたと思っています。私が申し上げた2,26事件の北一輝論のどこかが彼らの琴線に触れたからでしょうか。無論彼らは金銭を要求するような超法規的な団体ではありませんでした。運がよかったからでしょうか私が話し相手だったからでしょうか。彼らを武士のハートを持った方だったと評しておきましょう。申し訳ないのですが、責任ある身なので自宅も会社もお教え出来ません。私もビッコひきながら相当怖かったのですが、話し合いをして今は大変よかったと思っています。当社屈強のセキュリティ三人と一緒でしたが、お相手からの脅しは一切ありませんでした。私は単なる自由主義者でしかなく、神道も大切にする佛教信者でしかありません。然も政教分離主義者です。心の問題としてお釈迦様が最期に仰った『自帰依自灯明 法帰依法灯明』を心から信じています。自ら潔く佛教に帰依し、自らが佛法を護持し、自らを解決しようとする、今やそうするしかありません。 ここで一つだけ心底から謝罪したい方がおいでです。実はこの十日間酷く辛く忸怩たる思いの日々でした。その不安を少しでも打ち破りたいと、ちょっとの時間を見つけては必死の形相でブログを書かせて戴き、我が心の脆弱さと不安解消に相努めました。実際何も分からない時点では、私の大切な方を何としてもお守りしたかった一心で、一切没交渉にしてしまいました。ところが日々の努力が日に日に実りそうになり、先ほどの電話で最後の終了と致しました訳です。いつもいつも本ブログでお励ましを受けている大切な方で、今回のことで心から深くお詫びを申し上げますとともに、遅きに失した感があり、調子のいいお話ですが、再びお付き合い願えれば幸甚と存じてます。心からご心配をお掛け申し上げました。でももう大丈夫です。ここのコメント欄でも本来はお互いに自由な発言をする場であるべきでしょう。 当家で毎年増え続けている勿忘草の鉢植えは今年も三鉢増えました。その幾つかを自宅の机上やあちこちにに置いてあります。幽かに香りがします。今日の東京は雨。明日も雨。櫻が可哀相です。すっかり散ってしまわないか心配でいたたまれませんが、散ることは運命です。櫻が未だ咲いていない裏日本の一部や北の大地など地方の方々に心から思いを致しつつ、こちらの櫻が終わり次第、漸く静かになった頃、今度はあなたがたが主役で、あなたがたの主役の櫻が爛漫と咲くのだと、この勿忘草が渾身の心を籠めて伝え語っているでしょう。抽象画のような撮り方をした写真もおまけで掲載申し上げました(世間では↓を失敗作というらしい、プ)。お休みなさいませ!
09 febbraio 節目の花か 節分草
節目の花か 節分草
2月15日は『建国記念日』とされ 国民祝祭日になったのは ごく近年であるが
天照大御神の曾孫にあたる神武天皇が即位した日をもって 建国の日としたわけである これは本当に事実なのだろうか
日本人として天皇家に対する思慕の念はあるものの 充分な歴史的根拠もなく 明治政府は2月11日を紀元節にした(明治7年制定)
その日は以前から続いていた日ではなく 新しく出来た国体護持の為に敢えて策定したものであったに違いない
戦後様々な思惑や憶測などが交錯し 祝祭日の見直しの際 昭和23年一時廃止されたものであったが
それが昭和41年の法改正で 再び復活したのであった 政治的なドサクサ紛れに あっと言う間に作られた感が否めない
日の丸は結構以前からあったものだし 国歌にしても こうした大切な国民合意での決め事に どうして狭小な政治色が強いのだろう
1月1日は正月で 天皇誕生の日を天長節と言い 国家設立の記念日を紀元節と言い 明治節は今の文化の日で 四大節と呼び
新しく天皇に即位する度に 紀元節を作っていたら 幾つあっても足りなくなろう 誕生日だって多くの日をさくことになる
ちなみに皇后の誕生日を地久節と呼ばれているが これは歴史的に地味にやられて来た感があり
歴史的に観ても女性は男性の下位であったのか 現職の厚労大臣の女性蔑視とも思えるような発言があったばかりだが
肝心な決め事に対する日本人は 自らが一番悪い癖が出ている証拠であり 何故論議を尽くさないのか不思議でならない
世界の建国記念日を調べて見ると 殆どが母国からの開放や植民地主義から開放された日がそうなっている
韓国の建国記念日は 日本がポツダム宣言を受諾した日であり つまり8月15日であるが 同じ隣人の中国では
毛沢東が1949年天安門で 国家の独立を宣言した10月1日で 大戦後から4年の歳月が経っていた 所謂国慶節である
それぞれ一定の意味があり 国民はみな納得づくの記念日となっているが 我が国では曖昧模糊としているばかりだ
中国や韓国の隣人として 日本人はそれぞれの隣国の意図を決して忘れてはならないものであろう
神武天皇の即位のことで決めたとなれば 日本独自のことでいいことかも知れないが それなりの国民的合意があって然るべきだろう
何かにつけ こうした上からの決め事に熟思たる粛然としないものを大いに感じられてならない
いつからこのような日本人になったのであろうか 小生は国旗が好きだし 『君が代』も大好きだし 日本人として大いにプライドもある
今度憲法が改正される動きがコソコソとあるが 嘗ての国民祝祭日法制定の時のような安易な方法で作っては決してならない
白洲次郎のように合理的で裂帛の気合が入った愛国心を背景に作って欲しいと願うばかりだ 無論グローバルなものの考え方も必須であろう
いずれにせよあらゆる決め事に 人事を尽くせと言うことである そう言う節目の意味でも未だに日本の敗戦は完了してはいない
経済ばかりが極端に肥大化し 文化を等閑にし 地方を弱体化させ 子女子を虚仮にし 道徳や宗教心はどこに行ったのか
古き善き時代の伝統もすっかり失くし 恐ろしく卑猥で乱雑な社会を ただ漫然と容認しようとしているかのように思えてならない
次の世代に 大いに自慢出来るものを 我々は今構築しなければならないと信ずる 但し性急にではなく 速く!
日本の民主主義は未だに成熟していないと見るべきであろう 選挙の際の清き一票にすべてが託されている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5 ウィキペディア百科 各国の建国記念日
11 gennaio 拝啓 安倍総理大臣どの
拝啓 安倍総理大臣どの
拝啓 初めてお便り申し上げます 貴殿が選挙公約としても 日頃からの言動にしても 必ず出て来る『美しい日本』と言う言葉ですが 貴殿はいかがお考えなのでしょう さっぱり見えて参りませぬ
一例を言いましょう 昭和三十八年に全国のお祭りの調査をしたものがありますが 昭和五十年代 お米の減反政策を取られてから 五穀豊穣を祈ることもなくなり あっと言う間に 田遊びとかお田植神事とか田楽とか 田に関するお祭りが半減して無くなりました 米は日本民族の宝であり 日本人の神(稲魂さま)にまでなっています 秋の新嘗祭や神嘗祭を まさか知らぬ筈はないでしょう 櫻も又お米に関係した植物でした 櫻が見せる四季折々の様子は 農家にとって仕事の一番の目安になっていたのです
各地方は置いてけぼりにされ 北海道なら札幌へ 九州なら福岡へ 皆一極集中で 本当に田舎には祭りのやり手がなくなったこと 経済格差が広がり 地方への分配は充分でないこと 祭りのこと一つ考えても 同様な喫緊の事態であり課題でしょう 昭和三十八年の調査では民俗芸能は四万七千箇所ありましたが 昭和六十年の調査では半減していました 現在無論復活したものもあれば 潰えた民俗も多いだろうと恐ろしくなります 文化庁は何をやっているのでしょうか
馬鹿の一つ覚えのように 何かと経済優先で とは言えかく言う私も経済人で多額納税者の一人ですが 四季折々の移ろいの中から 繊細に感じ取った先人たちが 営々と築け上げて来た官民関わらぬ文化 貴殿はどのように感じておられるのか さっぱり分かりません そしてどうされようとしているのか 甚だ心配で疑問です
日本人の古くから伝わって来た豊富な文化は 世界一の豊かな文化です 先ずそれをどこまでご存知でしょうか 戦後日本人は 悉く自負心を失いました あのような蛮行があったから止むを得ないのでしょう 米軍は未だに大きな顔をしています でも国敗れて山河はあったでしょう 美しい山河があるではありませんか 文化面だけではなく環境面でも道徳面でも教育面でも 手広く手当てするギリギリのところに今あるのです 切羽詰っているのです まさか選挙用の謡い文句だけではなかったのでしょうね 美しい日本とは如何なるものでしょうか はっきりと責任を持ってお応え下さりませ! 世界に誇れる美しい日本の文化こそが 今後すべての創造の根源であり 自尊心の回復であり 私たちの精神の拠り所なのです まさかご自身のご先祖のように ご維新の長州藩が如く 殺気立った破壊論者ではありますまいな どうぞこの国をよくして下さい 敬具
あづさ弓
<提案>
① すべてのお祭りの現状を調査し把握し 取り合えず抜本的に補助・育成すること ② 選択の必要がありますが 『論語』などの教育も重要視し徳育を具体的にすること ③ 日和見的な現状の祭日を元に戻すこと 暦と祭りは一体で 日にちにはそれなりの理由がある ④ 元服の儀を二十歳ではなく 従来の通り十五歳にすること 但し若干の考慮すべきことあり ⑤ 元服後すべての者は兵役につくか ボランティアを一定期間すること ⑥ 封建主義の時は封建主義と言う言葉はなかった その時代の良さも認識し 取り入れるものは取り入れること ⑦ 憲法を初めに 少年法や刑事法の改正を急ぐこと 新しい時代に対応すること ⑧ アメリカの支配政治から脱却し アジアの国々を重視し ユーロならぬアーロを目指し 共栄圏を構築すること ⑨ 非核三原則は堅持すること 但し自国民の安全を守れる充分な軍備を持つこと ⑩ 官僚支配政治から脱却し すべて一般会計予算及び決算にしてしまうこと 以上のように古いものはすべて破棄 若しくは棄却することがないことが重要です (以上 スイスを模範国として 策定してみました)
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