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May 15 葵祭り 仄かなる哀愁
葵祭り 仄かなる哀愁
早いものである。去年「葵祭り」を『斎王代・女人列御禊神事と葵祭り』として書かせて戴いてから、もう一年が経つ。本日五月十五日、京の都では「葵祭り」が挙行されていて、来年こそ一緒に観ようねと妻と約束していたのに、こんな怪我ではどうしようもない。去年も我が尊敬する道草先生がご丁重にコメントを書いて下さった。 「葵祭り」とは天皇の名代として斎王(天皇の内親王)が野宮から出て、上賀茂神社と下鴨神社の例大祭へご祈願に行く行事のことである。大同二年(807)に始まっており、延々と永い歴史がある。嘗ては旧暦四月中の酉の日に行われたが、明治十七年から五月十五日になった。京都で祭りと言えば、この祭りを指すぐらいの古来から有名な祭りで、現在斎王の制度がないために、上賀茂神社の社家や下鴨神社の氏子の中から、斎王代(さおうだい)が毎年選定され、華々しい平安絵巻を繰り広げている。野宮は斎王が精進潔斎した場所であり、葵祭りでは斎院であったが、未だにそこがどこかは定かではない。一方伊勢の神宮にも斎王が天皇の名代としてご祈願に行く慣例(神嘗祭などへ)が永いこと行われていた。こちらは斎宮と言い、伊勢の神宮から20キロも離れた現在の明和町に壮大な斎宮寮があったらしい。現在その発掘調査が進行しているが、余りの大きさに全部発掘調査が終了するのは100年近く掛かると言われている。どちらも処女の未婚者で内親王でなければならなかった。更にどちらとも野宮にお籠もりをして潔斎してから出掛けなければならなかった。葵祭りでは見物の順番(?前後)を巡って争い(源氏物語による)が絶えなかったが、ひと目斎王見たさの思いであったろう。又「源氏物語」では六条御息所が、前東宮の娘(後の秋好中宮)が斎宮となったために、その群行に同道するようになり、賢木巻で、光源氏と別れの舞台となったのも、この野宮であった(能『野宮』)。斎院や斎宮の斎王たちは通常は生涯独身を通すが、全く結婚があり得なかったものでもないようで、但し臣下と情を交わすのは不義密通となり、その職を放擲されたようである。華やかな舞台の影にはこうした女性たちの非情なる哀しみがあったのだろう。伊勢の斎宮は500年ほど続いたが、経費が大層掛かったためだろう、1330年代には終わっており、その後は現在まで勅使派遣に留まっている。いずれにせよ葵祭りには何処となく哀愁が感じられてならないのは私だけだろうか。今日の天候は最高であるだろう。 「葵祭り」では、二葉葵(写真左)が多く使われる。話題は本題から聊か離れるが、葵の葉っぱと紋章のお話を少々。この二葉葵を紋章とするのは、賀茂明神信仰から来ている。二葉葵は京都の上賀茂神社と下鴨神社のご神事に用いられて来たもので、別名カモアオイともいわれる。そして、賀茂祭には必ずこの二葉葵を恒例の神事として用いたことから、この祭を葵祭と呼ばれるようになった。このように葵は、賀茂祭に用いた霊草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、これを賀茂神社のご神紋としたのは言わずもがなである。『文永加茂祭絵巻』に、ご神事の調度品に葵紋が用いられているのが見られる。この頃から社家や氏子を通して家紋とし用いられたようだ。 葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・島田氏らが戦国時代前期頃から用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならないが、松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。 永禄九年(1566)、家康は朝廷に願い出て、松平から徳川に復姓した。このとき本家紋も、葵紋よりも新田源氏のシンボルである「一つ引両」にもどしてもよかったわけであるが、あえてそれをしていない。ここでも新田氏の子孫を称するには矛盾が出ているといえそうだ。葵紋は、家康が征夷大将軍となってから権威ある紋として、一般の使用を禁止し一門親藩だけに使用を許した。江戸時代には、将軍家と御三家および親藩の一部が使用した。しかし、一門で本末を区別するためにいろいろな葵紋があったようで、このように武家も賀茂神社のご威光を嵩にしたのである。
May 13 舞と踊
舞と踊
能を習った者は誰もが舞と踊の差を知っている。舞は跳ねないが、踊は跳ねる差があるのだと。だが明治ご維新の頃「Dance」という外来語が入って来てから、舞と踊の違いがなくなって、どれもDanceでひと括りにされてしまって、その相違がなくなったのである。現在でいうなら、合併した都市が平仮名や由緒がなくなった地名を名乗るようなものだ。そもそも舞は幸若舞とか能舞とか延年の舞とか、能を含めた古い芸能を指す時が多く、踊は踊り念仏や盆踊りで代表されるように中世の仏教芸能から端を発し、歌舞伎や日本舞踊で集約された永い伝統の歴史がある。 ただ能にだって飛んだり跳ねたりする曲がある。代表格は「石橋連獅子(しゃっきょうれんじし)」であろう。舞踊にだって、全く跳ねない舞のような踊が連綿としてある。京舞の先代四世・井上八千代の老女物や巻頭写真に掲げた武原はん「雪」という上方舞などである。但しその区別は能には一定の型があって、踊には型がないように思われるのは早計だろうと思う。多くの踊は魂振(たまふり)であり、舞には鎮魂(ちんこん 或いは たましずめ)の役割が多いのは確かに事実だ。能の型が彼女たちの舞踊に多大な影響を与えたこともある。従って現在では舞と踊の区別をするのは甚だ得策ではないが、爾来それぞれに伝統があったことだけは厳密に申し上げておきたい。 日曜日に、父と母の墓参に行って、紅いカーネーションを届けた。粉糠雨(こぬかあめ)がそぼ降り止まず、お墓の真後ろに植えた江戸彼岸の樹が堂々と大きくなって、青々とした櫻若葉で覆われていた。多分母は初めての真紅のカーネーションを歓んでいたのだと思う。実家に帰って、父がいそいそと山登りする準備をしている間、ちょうどテーブルにあった父が大好きな武原はんのDVDを観た。第二巻の「雪」だ。静かに流れるような舞姿。凛としている。動く日本人形と謳われたはんの舞にしばしうっとりとして観とれていた。12歳の若さで徳島から大阪へ来て、上方舞の山村流で舞踊を習いつつ、芸妓として座敷に出ていた。28歳にして、何とあの青山二郎と結婚し上京。この男は我が中学・高校の大先輩で、目利きとして特別に有名で、小林秀雄・河上徹太郎・中原中也・永井龍男・大岡昇平などが、所謂「青山学校」の生徒で、白洲正子や宇野千代などが弟子だったと言うから凄い御仁である。然し武原はんは間もなく離婚し、「なだ万」などの女将を経て、芸道一直線。生涯自分の芸を磨き続けた人だった。西川鯉三郎や藤間勘十郎などにも師事。独自の芸風を確立し、全面ガラス張りの稽古場で、自分の師匠はガラスの中の自分であるとの信念を貫いた人であった。60歳には60歳の芸があり、80歳には80歳の芸があると言っていた。世阿弥の「時分の花」ということであろう。画家の小倉遊亀や野島青茲など多くの日本画家が、はんの瞬間の美を写し取っている。平成13年95歳で亡くなるまで現役を続行、この世のものではないとまで言わしめた至極の芸を披露し続けた。お座敷芸を芸術の最高到達点まで高めた人であって、文化功労賞に輝いている。はんの「雪」こそ、舞と踊の融合を見事に果たし得たのではないだろうか。 今頃父は立山のどの辺にいるのだろう。頂上は未だ雪の中であろう。山を登りながら、武原はんを思い出すことがあるのだろうか。そう言えば母は若柳流を習っていた。父は仲間と一緒であるとは言え、危険な春山登山である。雪崩などに遭わないで帰って来て欲しい。後5年で80歳になる父である。母が亡くなってからずっと独りを守り、新田二郎の本をこよなく愛し、峻厳な峰々と踏破して来た。日本百名山をすべて登頂するまで、未だ16の山々が残っている。偶には一緒に登ってあげたいものだが・・・・。父の夢を果たしてあげたい。
松岡正剛の千夜千冊 武原はん著『武原はん一代』 静岡県浜松市の料理旅館『吉野屋』は、はんの舞姿を描いた野島青茲の実家
May 09 母の日に
母の日に
去年、初夏の朝顔市のことで、若くして亡くなった僕の母のことを書かせて頂いた。あれからもう一年近く、早いものである。今年は特別に嬉しい。僕に新しく母が出来たからであり、嬉しくて仕方がない。愛する妻を生んでくれた尊大さは何にも代え難い。去年までの僕にとってカーネーションとは、純白でしかなかった。いつも母の日には母の墓参をして白いカーネーションをお供えし終わった。もう直ぐ三十三回忌になろうとしている。それが何と今年から新しい母がいるのだ。この母へ感謝を籠めて、鉢植えの紅いカーネーションは無論のこと、色とりどりの薔薇の切り花も一緒に贈らせて戴いた。この日曜日には届くであろう。妻との年の差より、義母との年の差の方が遥かに小さい。それでもいつも僕はお母さんと呼んで親しみを籠めて、そう呼んでいる。妻に似てスラリとした方だが、僕の実母とも、笑顔のどこだろうか表情が似ているように思われてならない。 胸の熱く遠きところ、実母は年を経るごとに、一層若々しく美しくなって来る。小学一年生の初めての運動会の時であった。大粒の涙をこぼしながら、人目を憚らず大きな声で「頑張れ」と声援を送ってくれた母を決して忘れない。当時はとても恥ずかしかったが、今では一番の思い出なのかも知れない。僕は大きくなったよ、と。そして僕は母より既に長生きしている。いつも頭の中か心の中か、どこかに母がいる。時を経るごとに、いい思い出だけが全身を駆け巡り、依然としてどんな記憶も薄れることがない。母の匂いすら覚えている。 そんな母を忘れるわけがない。去年から母が再生して生きてかえって来たのだと思いたい。いつもどこかで亡き母捜しをしているのだから。そんな男ってどうしようもないが、母は僕が死んでからも永久にずっと母であるのだし、そうしてこれからも若いまんまの母である。確かに義母に、どこかの情念で亡き母を重ねているのかも知れない。妻にそんなことを正直に話したら、優しく優しく許してくれた。どんな男にだって母はいる。そして何時までも母とともに生きているのだ。お母さん!有難う、今度転生したら、又僕を生んで下さい。義母はあなたが与えてくれた天からの贈り物!今年から、あなたの墓前には真紅のカーネーションを手向けましょう。日曜日、待っていて下さい。
新茶のこと
新茶のこと
長い連休でさぞやお疲れのことと存じます。どちらさまもお疲れ様でした。疲れたお身体には、先ず一服の新茶は如何でしょうか。我々日本人にとって、お茶は最も身近な存在であるものの、案外知られていない部分が多いようです。ここらでお茶をお出しする感じで、新茶のお話でも如何でしょう。お話は少々長くなりますが、お茶、特に季節柄新茶に絞って、お話を申し上げたいと存じます。特に今年の八十八夜は立春から数えて八十八日目ですから、五月一日でしたね。この日、童謡で歌われた「茶摘み」の日ですから、お茶との関係が深い日とご存知の方も多いことでしょう。
<新茶の摘み取りと栽培> 新茶の摘み取りは、立春(二月五日頃)から八十八日目の五月初旬に摘み取られます。地域によっては多少のズレはありますが、その年に伸びた新芽のうち、この時期に採られるモノを一番茶と言って、最高の旨味を持っています。茶の旨味はテアニンと言うアミノ酸で、新茶はこれが多く含み、甘味と香りそして新茶の色、愛好者でならずとも、この時期のお茶を楽しみたいと言うものでしょう。一番茶の後は、六月下旬に摘む二番茶、七月下旬に摘む三番茶と、順次後になるに従ってアミノ酸の含有量が少なくなり、お茶の旨味も落ちて参ります。茶樹は、もともと温暖多湿の地が栽培に適しているとされていますが、我が国や中国の茶樹は、インドや熱帯の茶樹と異なり、低木で葉も小さく寒さに強く出来ています。とは言え 萌芽する四月頃に降霜があると、新芽は忽ち酸化してついに枯れ死してしまいます。従ってこの時期の茶業家は寒冷紗(かんれいしゃ=本の綴じ込み等に使用)を初めとし、茶樹の上にそれらを掛けたり、送風や散水、或いは茶園の空気を過熱して、防霜対策に余念がありません。 新茶の中でも、碾茶(ひきちゃ=抹茶)や玉露(ぎょくろ)用のものは、摘採前の二十日くらいは覆いをして、九十五%程度遮光した中で栽培されます。これは新芽が伸び、三葉が開いた頃、ヨシズを張り巡らせ、四,五葉になると、菰(こも)などで覆ってしまう方法で、遮光することによって、茶葉に旨味と香りや柔らか味、そして若々しい緑色を保たせる為になされるのです。箱入り娘を育てるようなもので、取り分け玉露と抹茶用の濃茶用にはそうして育成された一心二葉までしか摘みません。薄茶用はその下の新葉が摘まれます。煎茶と番茶は覆いをせず、太陽の光をいっぱい浴びた茶葉のことですが、煎茶はその年に伸びた新芽が摘まれ、番茶は前年に伸びていた古い葉が摘採され、冬を越す為に、澱粉や糖分を多く含み、これはまた翌春に萌芽する新芽の栄養源になっているのです。従って新芽の頃はこの栄養分は大分失われているのですが、熱湯によって淹(だ)される番茶には特有の風味があり、煎茶とは風趣の違う味を楽しませてくれます。『鬼も十八、番茶も出花』と喩えに言われる通りなのです。
<お茶の歴史> ところで私達が日頃飲んでいる煎茶は、元文三年(1738年)宇治の永谷宗円によって作り出された製法で、玉露を初めとする緑茶は我が国独自のものです。中国伝来に釜炒り茶(生葉を直接釜で炒り、炉で乾燥させる製法。現在では九州の嬉野茶にこの製法が残っている)というのは、平安時代以来飲まれて来たお茶でしたが、江戸時代中期において日本人は初めてオリジナルなお茶を飲み方を始めたのでした。永谷宗円は、鎌倉時代入宋した僧・栄西がもたらせた抹茶(生葉を蒸して炉で乾燥し、それを石臼で挽き、粉にしたもの)の製法で、恐らくはここからヒントを得て創ったものだったのでしょうが、蒸された茶葉は揉むことによって一層旨味を引き出したと思われます。茶葉は揉まれることによって、その細胞が破壊され、一層の旨味を引き出されて来るようです。一般庶民の生活が劇的に向上した江戸中期以降、この緑茶が釜炒り茶に変わって主流を占めたのです。 そもそも我が国の飲茶の習慣は、平安初期の入唐した僧によってもたらされたもので、茶を喫した嚆矢(こうし)の記録として『日本後記』の弘仁六年(815年)四月の条に、嵯峨天皇が滋賀の韓崎(からさき)に行幸した際、梵釈寺で大僧都・永忠より、茶(釜炒り茶と思われる)を献じられたことが書かれています。飲茶は更に、鎌倉時代に入って成立した禅宗によって大きく広がりを見せ、この頃になると、各寺院を中心に茶園が各地に作られるようになったようです。 鎌倉時代の執権・金沢貞顕の書状によると、新茶の到来を赦す一文(元徳元年)があって、本茶(京都・栂尾の茶)の新茶を待ち焦がれる様子が窺い知れます。この頃から唐物趣味とともに、茶は当初の薬用より、嗜好品として飲まれ始めていたことが分かります。当然一部の上層階級だけでありましたが、淋汗茶(りんかんちゃ)や闘茶(とうちゃ)と言った遊興的な飲茶を経て、室町時代に茶の湯が成立するようになったものです。 中世の風俗画には、寺社の門前で簡単な小屋掛けした茶屋とか担い茶がしばしば登場致します。参詣の人や道行く人が一服一銭の茶を購い、楽しげにお茶を飲んでいる様子が生き生きと描かれ、飲茶の習慣が一般庶民層にまで定着していったことがよく分かります。もっとも抹茶と言う上茶は高価だった為に、なかなか口にすることが出来ず、もっぱら釜炒り茶で、お茶の色彩は文字通り茶色だったのです。 『お茶壺道中』と言うのが、江戸に幕府が置かれてから始まります。これは将軍家が宇治で新茶を茶壷に詰めさせ、江戸に持ち帰るもので、毎年行われていました。この為に特別な奉行がたてられ、茶を吟味する役目、道中遅滞のなきように、充分な権限が与えられていたようです。街道筋の庶民には多分恐れられていたことでしょう。 江戸中期の農業書には、茶は楮(こうぞ)・漆(うるし)・桑(くわ)とともに、主要産業として、生産が促されました。そこで文化の担い手として、上層階級から町衆に移った文化・文政頃から、茶は彼等の生活には欠かせないものになっていたのです。 また飲茶の習慣が日常化するに伴い、「茶化す」「茶々を入れる」「お茶を挽く」「日常茶飯」と言う生活用語に、「茶」が入って来たのは、この頃からだったでしょう。例えば「茶にする」「茶化す」とは、本来ひと休みすると言う意味ですが、転用され、話を混ぜ返すとか人を軽く見たりする時に使われます。 こんな風に最も日常化したお茶でありましたが、一方では総合芸術として、茶道文化を生んでいます。但し当初は戦国武将に深くかかわりがあったのでしょう。いずれにせよ、新茶を待ち焦がれる心情は、今も昔も変わりはありません。新鮮で美味しいと言う味覚への期待だけではなく、晩春から初夏へ、季節が移り変わる、言わば、生活習慣の節目になっていると言えましょうか。
<茶の薬効> 鎌倉幕府の記録書でもある『吾妻鏡』に、二日酔いの将軍実朝あて、僧栄西が茶徳を誉める一書を献じたことが記されています。この一書とは、我が国で最も古い茶書で『喫茶養生記』だと言われています。その序文に「茶は末代の仙薬、延命の妙術なり」と書かれ、茶の薬効が書かれてあります。当時の栄西は、茶は体の酸性化を防ぎ、ミネラルを豊富に含んだアルカリ度の高いものであると言った科学的な知識があった訳ではないでしょう。佛教における記述(聖典の中では多分「律蔵」)によって学んだものだったと思われます。但し現代の医学上・薬学上の研究の結果、この栄西の一書に言う薬効は間違いないものとして立証されているのですから、凄いことだなぁと思っています。緑茶に多く含まれているカフェインは中枢神経に作用し、知的作業能力や運動能力を高め、或いは疲労回復にとってよいことは充分衆知の事実でしょう。また最近では熱に強いビタミンCが多く含まれていることや、成分のタンニンが脂肪酸の過酸化を抑制し、細胞の老化を防ぐことも分かって来ています。清涼飲料水がお茶に人気が集中するのも大いに頷けることです。いずれにせよ、新茶が出て来る時期にあたり、晩春或いは初夏の楽しみが増えたようで、季節の贈り物として嬉しくなってまいります。
<お茶の雑学と新茶の淹れ方> お茶の雑学として、面白い二,三を御紹介しておきましょう。 宵越しのお茶は飲むな お茶に含まれるタンニンの一つにカテキンがあります。これは殺菌力を持っていて、血管を収縮させ、体液の分泌を抑えたりする収斂剤としての作用を持っています。お茶を淹れ、長時間置いておくと、お茶からこの成分が溶け出して、収斂作用が強くなり、これが原因で消化不良を起こしますので、要注意です。夏場など、これ以外に茶葉に含まれる蛋白質が腐ったりしますので、これも注意した方がいいでしょう。 薬はお茶で飲むな タンニンは金属や無機塩類と結合すると沈殿させる作用がありますので、貧血症などで飲んでいる鉄剤のようなものは一緒に飲むことは避けた方がいいでしょう。 茶の収臭性 煎茶・番茶などを入れておくのに、茶筒を使います。湿気を防ぐ容器ですが、お茶はすべて匂いを吸収する力を持っていますから、近くに、匂いのきついものを置いておくとその匂いを吸収してくれます。冷蔵庫などに長期間保存しておく場合、茶筒と身の間にしっかりとテープで貼っておくべきでしょう。逆にある容器に付いている匂いを消す場合はその容器の中に お茶を入れておくと匂いは綺麗に消えます 新茶の淹れ方 新茶の風味を楽しむ為には、熱湯を注いではなりません。湯冷ましか茶碗で二分ほど置いてから、冷ましたその湯を使います。急須には人数分だけ茶葉を入れ、湯を入れたら、茶葉がよく開くまで置いておきます。そうして一碗に集中して注がず、平均した濃度になるように、注ぎ分けます。 (以上 静風流家元指南) 皆さんは新茶をどちらで購入なさいますか?八女も静岡も宇治もみな大挙して待っている筈です。季節の贈り物として、たくさんお召し上がれ!
上記記事は主に亡き主人の記事で、多くは『櫻灯路』から引用された記事です
May 06 おせん
おせん
普段テレビの連ドラは殆ど観ない。でも気に入ったドラマだけ全部観る習性がついている。いつだったかNHK・朝の連ドラで「こころ」というのがあったが、その時の中越典子と伊藤蘭と岸恵子の和服のとっかえひっかえがメチャ素敵で、浅草のいなせな雰囲気も充分で、最後までビデオで取っておいて残らず全部観た。最近では倉本聡さんのフジテレビの連続テレビ映画で、大好きな寺尾聡主演だった「優しい時間」をたっぷりと観た。オトコの厳しい優しさというのだろうか、私と父の距離をある意味で彷彿とさせ考えさせてくれた。平原綾香の「明日」という歌も素敵だった。そして今私たち夫婦は蒼井優という素晴らしい女優が主演している「おせん」にぞっこんである。もともとのドラマは漫画「おせん」で大ヒットしたきくち正太原作らしいが、何といってもグルメが出て来て、その裏側が出ているから何とも楽しい。半田仙という壱升庵の若女将が面白おかしく奮闘する軽妙なドラマなのだが、大正ロマンを感じさせるおせんの着物とその着方・アンサンブル、まぁ何て素敵なんだろうか。惚れ惚れとして観ている。そしてグルメ場面がてんこ盛りで、どうあっても楽しくて仕方がない。手間隙掛けた昔ながらのグルメで、今夜も火曜日の夜、日本テレビ22;00から「おせん」が始まる。今夜は名物とろろ飯が出て来るから、今から楽しみだ。何と言ってもこの蒼井優という女優は既に大物女優になれる風格があり、その資格充分な逸材で、明るく天然でオキャンなおせんの役どころにぴったりである。蒼井優という女優は今後間違いなく大きく羽ばたいて行くことだろう。劇中おせんが発する「ワッチ(私)」という言い方が我が家のマイブームになっていて、二人で真似なんかしてたら実に楽しい。妻はワッチもあんな着方をしてみたいってな具合である。連休は今日で終わりだが、妻は明日、私と一緒に今夜の「おせん」を観てから京都に帰るという。 時間と始終死に物狂いで格闘している妻である。化粧っ気もない。スラリと伸びた手足と背丈や小顔から、普通ならミスコンかなんかでもいい成績を取りそうなものだが、それには全く興味がなく、ひたすら勉強の日々である。日本史学専攻で特に書誌学が中心で、英語・フランス語・中国語なども流暢に話す。書誌学も語学と同じで基礎学だから、どんなに時間があっても足りないと言い勉強することに必死で、それが楽しくてしょうがないらしい。この何日間か私も妻の生活を試みてみようとパソコンときっぱり縁を切って源氏物語を読み耽った。もう少しで読了しそうであるが、光源氏の深い哀しみや女御たちの儚さを四季折々の中に痛切に感じて、改めて紫式部の力量に驚愕している。この原典を割合短期間で読めたのも妻が傍にいたからであろう。ネットをやらないとつい淋しくなる私になっているのが、何とも情けない。ネットも携帯電話も一切しない妻に「ひたすら」という言葉が一番似合っているようだ。でも少しずつ母親になる心の準備とこうした「おせん」のようなテレビ見物や好きな音楽など、息抜きが偶には必要なのであろう。そう言えば、妻と二人きりで入った最初の飲み屋は先斗町で、河原町三条近くにある薬研堀のおばんざい・「おせん」であった。出逢い茶屋とも言っていたかも知れない。
<お断り;蒼井優さんの写真は蒼井さんの公式ホームページからお借り致しました> May 03 鯉幟(こいのぼり)
鯉幟(こいのぼり)
私たちは過去、海外渡航する度に、鯉幟をよく持参致しました。日本文化を知って戴こうという趣旨と平和への願いからでした。多分2000旒以上はお贈り申し上げて参りました。殆どは小さな鯉幟でしたが、公共の場にご寄贈する場合は加須市から特別に取り寄せた大きな鯉幟も多かったように思います。何処でも皆さんは大変に面白がり、大歓迎され楽しく受け取って戴けました。普段行くリヨン・パリ・チューリッヒ・ニューヨーク・パースはもとより、コピンヌハーゲンや南アフリカ共和国やアラスカやチリなど世界中へ配って参りました。ただ一つだけ気になる場所があります。チベットのラサにいらっしゃるお世話になったガイドさんへ差し上げた鯉幟です。あれはどうされたでしょうね。元気よく、あのエヴェレスト(中国名はチョモランマ)が見える紺碧の大空に舞ってくれればいいのですが、一刻も早く平和裡に自らのアイデンテティが守られる暮らしが出来るように、ひたすらお祈りするばかりです。 端午の節句のもととなっている故事は、紀元前277年汨羅(へきら)の淵へ身を投じた屈原(くつげん)の御話があったからではありませんか。屈原は楚の国の忠臣で王に種々の諫言(かんげん)をしたのですが、受け入れられず、逆に江南に流されてしまいました。そこを秦に狙い撃ちされ、楚の国は秦に滅ぼされてしまったのです。哀しみのあまり屈原は祖国に殉じて身を投じてしまいます。そのことで、屈原は忠君愛国の代表人物として、或いは自由・正義・人民・祖国を愛し抜いた人として、現代に至るまで変わらず尊敬され続けています。その屈原が亡くなった日が五月五日で、この日江水においてはボートレースが行われます。又この日水底に没した屈原を悼んで、竹筒にお米を入れて水中に投じて祀らう習慣が出来たところ、蛟竜(こうりゅう)が来てその食物を盗んでしまうというお告げがありました。そこで盗まれないように、蛟竜が最も嫌う楝樹(おうちのき)の葉に包んで五綵(ごさい)の糸で縛って水中に入れたのです。これが現在も日本でも五月五日の食物になっています。いわゆる粽(ちまき)の原型です。このように誇り高き漢族には漢族の特有のアイデンテティがあり、一方、人懐こくて純粋無垢で敬虔な佛教信徒であるチベットにはチベット族独自のアイデンテティがあるのです。 今度来日される中国の胡錦濤国家主席は49年前の若かりし折、自ら先頭に立って指揮、チベットを徹底弾圧し武力制圧したその方です。その功績が江澤民(当時の国家主席)から認められ、今日まで出世階段を脱兎の如く上り詰めた方でした。本日3日チベット亡命政府から特使二人が派遣され、北京で6日まで非公式協議をすることになっていますが、中国政府のトップがトップですから劇的な進展は全く見込めないのです。国家を返せ、革命を起こすなどという過激な発言を、ダライ・ラマ十四世はどこででも、たった一度も話していないのです。チベット族特有の佛教文化のアイデンテティを守りたい一心だけで、完全に非暴力を訴える人です。その人を蔑視を籠めてダライ(ラマは尊称で、中国政府は一切尊称をつけない)反動的一派はなどと記者会見などで報道されるとつい哀しくなって来ます。従って殆どの希望を見出せないまま、私は同じ仏教徒として今朝早く起き出して、大日如来さま・弘法大師さまに深く深くお祈り申し上げました。せめて糸口を与えて戴きたいと。 国家同士、先ずお互いのナショナル・アイデンテティを尊重することから平和的諸々の手段が講じられると思うのです。アフリカで展開されている中国とインドの資源をめぐる覇権争いも気になるところですが、当面オリンピックを控え、中国政府に自制と自重を求めたいと懇願してやみません。
画家・中川一政先生の書
May 02 櫻・病・枯死 そして再生へ
あをによしの歌に詠まれた奈良・八重櫻
櫻・病・枯死 そして再生へ
巻頭の写真は奈良で最も有名な奈良八重櫻であります。原木は東大寺の裏手にある知足院に、四月の終わりにもなろうかという時ひっそりと咲き誇り、関西ではシーズン最後の櫻になっています。伊勢大輔が「いにしえの奈良の都の八重櫻けふ九重ににほひぬるかな」と詠まれた八重櫻はどんな櫻であるのだろうか、古代奈良に美しい八重櫻があったということだけしか分かっていませんでした。大正時代の植物学者・三好学博士は全国にその探査・調査をしたところ、ついに奈良・東大寺の塔頭(たっちゅう)知足院の裏庭に、他では全く類例の見ない気品に満ちた櫻があることが分かりました。そして文献や古記録や古歌や史実を丹念に調べあげ、これが奈良・八重櫻であると確証が得られ、それと断定されたのでした。大正11年4月下旬のことです。直ちに植物学誌に報告し、櫻の新種・ナラヤエザクラとして発表されました。翌年の3月に国から天然記念物として指定され、現在は子樹を少しずつ増やしながら、市と県の花となっています。関西圏では四月で一番最後の櫻の開花となっています。 このように偶々運のいい櫻もありますが、世界一櫻の品種が多い我が国では、北海道で生まれたピカピカの新種もたくさんあります。松前の小学校に赴任して櫻の改良・開発に努めた浅利政俊先生がいらっしゃいました。多くの新種を育成し惜しげもなく人に与え続けた稀有な人柄の先生でした。今朝会社から電話があって、松前帰りの櫻チームが来ていると連絡を受け、運転手に迎えに来て戴いて、久し振りに皆さんに合流致しました。この一年ずっと現存の櫻の調査をして来たチームもいて、土地収用の人たち以外殆どのチームが揃ったので、俄かに会議が開かれたのです。他の人たちは会議終了後北海道に渡る計画らしく、皆元気いっぱいでした。 奈良八重櫻 北海道・静内の蝦夷山櫻 弘前城址公園の染井吉野
報告書を書くつもりで何人か膨大な資料を持っていました。全国の櫻の名所(主に染井吉野)の現状把握と吉野山の調査結果でした。それに古木だけを観察調査した人の記録もあったので、早速見せてもらったところ、実に大変なことが分かりました。先ず全国の櫻の名所の87%(以下ピックアップ法によるサンプル調査)が危機に瀕しているということ。20年~30年以内に現存の染井吉野は殆ど枯れてしまうだろうと。主にテング巣病に罹っており、直ぐに伐採しなければならない樹木は、その中で実に28%に近いことが判明致しました。櫻にとっては天敵の宿木(やどりぎ)が繁茂していた樹木も数多くありました。更に吉野山の櫻はまさに危機中の危機で、北側だけの斜面に咲く山櫻はこの2、3年で全滅するのではないかという大胆な憶測もあって大変なショックを受けました。掘って根周りを調べたところ、どの樹も根腐れを起こしていて、腐朽菌(キノコの種類)が樹木のあちこちにに付着し、樹木全体を朽木へ導いているというものでした。無数の病的な写真にも衝撃を受けました。これは無論地球温暖化の多大な影響下で、降水量も圧倒的に多くなり、地下水が異常に高くなって、水捌けが悪く、根は呼吸をしていない状況で、根の先端から入り込んだ菌が樹木全体にまで及んでいるからだということです。5000本或いは6000本以上が枯れる運命にあるのではないかとも。そしたら吉野の風景はガラリと変化してしまうことを覚悟しなければならないのでしょう。では補植したらいいと簡単に思われるかも知れませんが、先ず同じ場所には余程大規模で丁寧な土壌改良と地下水脈経路の改造をしなければ、新しく植えても又同じ病気に罹ってしまうだけなのです。地上にある枝葉と殆ど同じ分量の根っこがあると思って頂きたいです。観光地では櫻の繊細な根っこが人の脚によって踏まれ呼吸が出来ず、枯れる時期をただ待つのを阻止出来ないでいる櫻も多いようです。 今後の私は櫻山計画にひたすら邁進する覚悟ですが、こんな状況では私たちの夢物語だけを考えているわけには行かなくなっているようです。㈱ウェザーニューズ社では櫻モニター登録制度が始まっており、全国で14,000人もの方々が櫻モニターに会員登録し櫻の情報を収集しておられるようです。でも情報だけではどうにもならないかも知れません。ユンボなど建設機械を製作しているコマツ製作所が始めた企業メセナとして財団法人日本花の会があります。ワシントンに櫻を送った初代東京市長として著名な尾崎行雄を顕彰するために作った財団法人日本さくらの会は、代々衆議院議長が理事長を務められていて運営されています。この二つの大きな組織が櫻の諸問題のバックアップになっています。そこへ割り込んで私たちは純粋に民間人だけで立ち上げ、広大な櫻山を確保し、そこにすべての方々が記念植樹(当然無料)をしたり、櫻を中心とした研究所・養成所・美術館・宿泊施設などの諸設備を作ろうとしています。私たちは純粋に日本人のDNAを持って生まれたからには健康な櫻を絶やしてはならないという亡き主人の大なる悲願がありました。古代稲の神にも相当した櫻は日本人の心そのものであると。私もそろそろ動きを早めなければならないでしょう。やむにやまれず、ただこうしてはいられないのです。昨日北海道各地では気温30℃まで上昇したとか、お陰で例年より早く蝦夷山櫻も咲き始めたことでしょう。可笑しな天候です。こうした危機的状況は私たちの努力だけで解決つくものでしょうか。分かりませんが、それでも必ず前へと進まなければなりません。どうぞ応援していて下さりませ!
April 30 源氏物語と能と
ゲンジスミレ 山梨など決まった地域にしか咲かないスミレで 裏が紫 源氏物語を思い起こさせる菫
源氏物語と能と
能の現行曲は250番ほどありますが、意外に源氏物語を出典とする能は少ないように思われます。『半蔀(はじとみ)』『夕顔』『葵上』『野宮』『須磨源氏』『住吉詣』『玉鬘(たまかずら)』『落葉』『浮船』『源氏供養』『碁』『夢浮橋』など、これしかありません。中でも最も人気が高いのは『葵上』でありましょう。私は個人的には『半蔀』が大好きですが、能のドラマトゥルギーでは「平家物語」の方が圧倒的に似合っているらしく、何と平家からの出典は30番にも上っています。その他「伊勢物語」や「今昔物語」などからの出典が多いでしょう。更に源氏物語の原本そのままから改作された能は殆ど皆無と言っていいかも知れません。源氏物語の周辺へのドラマが多いのです。その証拠に「葵上」などは葵上は登場せず、六条御息所が怨念の限りを尽くす般若面をつけて登場したり、必ずひとひねりされてあるのです。これだけの能で、『源氏物語』を全部通して知っている顔は決して出来ません。そこでこの連休中に、源氏物語本体を読む覚悟を致しました。以下少々ばかり能における源氏物語のさわりを要約致しました。三番のみにて失礼します。
葵上 光源氏の正妻、左大臣家の息女の葵上は、物の怪にとりつかれ重態でした。回復させようと様々な方法を試みますが、うまくいかず、梓弓(あずさゆみ)の音で霊を呼ぶ「梓の法」の名手、照日(てるひ)の巫女を招き、物の怪の正体を明らかにすることになりました。ところが巫女の法に掛けられて姿を表したのは、元皇太子妃で源氏の愛人の六条御息所(みやすどころ)の怨霊でした。御息所は、気高く教養深い高貴な女性ですが、近頃は源氏の足も遠のき、密かに源氏の姿を見ようと訪れた加茂の祭りでも車争いで正妻の葵上に敗れ、やり場のない辛さが募っていると訴えます。そして、葵上の姿を見ると、嫉妬に駆られ、後妻打ち(うわなりうち)〔妻が若い妾(めかけ)を憎んで打つこと〕で、葵上の魂を抜き取ろうとします。家臣たちは、御息所のあまりの激しさに恐れおののき、急ぎ偉大な法力を持つ修験者(しゅげんじゃ)横川(よかわ)の小聖(こひじり)を呼びます。小聖が祈祷を始めると、御息所の心に巣くっている嫉妬心が鬼女となって表われます。恨みの塊となった御息所は、葵上のみならず祈祷をしている小聖にも襲いかかりますが、激しい戦いの末、御息所の怨霊は折り伏せられ、心安らかに成仏するのでした。題名は「葵上」ですが、実際には葵上は登場しません。舞台正面手前に1枚の小袖が置かれ、これが無抵抗のまま、物の怪に取りつかれて苦しんでいる葵上を表現しています。物語の中心は、鬼にならざるを得なかった御息所の恋慕と嫉妬の情です。御息所は元皇太子妃なので、鬼に変貌しても、不気味さの中に品格を表す必要があります。特に、前場の最後、扇を投げ捨て、着ていた上着を引き被って姿を消す場面では、感情の盛り上がりをいかに表現するかと同時に、高貴さを損なわない動きの美しさを要求される難しい能です。この作品には、『源氏物語』らしい雰囲気を醸し出すための様々な仕掛けが施されており、前半では、見せ場の謡に、『源氏物語』の巻名が散りばめられていますし、また御息所が葵上への嫉妬に悩む直接の原因となったのは、賀茂の祭の車争(くるまあらそ)いに破れたことであるという室町時代の解釈を反映して、御息所は前半破れ車に乗って登場するという設定になっています。
野宮 晩秋の9月7日、旅僧がひとり、嵯峨野を訪れ、伊勢斎宮の精進屋とされた野の宮の旧跡に足を踏み入れます。昔そのままの黒木(皮のついたままの木)の鳥居や小柴垣を眺めつつ参拝していると、榊を持った上品な里女が現れます。女は、僧に向かい、毎年必ず長月七日に野の宮にて昔を思い出し、神事を行う、ついては邪魔をしないで立ち去るようにと話します。僧が、昔を思い出すとはどういうことかと尋ねると、かつて光源氏が、野の宮に籠もっていた六条御息所を訪ねてきたのがこの日だと告げ、懐かしそうに御息所の物語を語ります。そして、自分こそが、その御息所だと明かし、姿を消してしまいました。別に現れた里人から、改めて光源氏と六条御息所の話を聞いた僧は、御息所の供養を始めます。すると、牛車に乗った御息所の亡霊が現れます。御息所は、賀茂の祭りで、源氏の正妻葵上の一行から、車争いの屈辱を受けたことを語り、妄執に囚われている自分を救うため、回向して欲しいと僧に頼みます。野の宮での源氏との別れの記憶にひたりながら、御息所は、しっとりと舞い、過去への思いを深く残す様子で、再び車に乗り、姿を消しました。「野宮」は鬘物のなかでも、大曲とされています。源氏物語に材を取り、主人公は六条御息所です。秋の嵯峨野の哀愁に満ちた風情のなか、昔を懐かしむ御息所の深い切なさや、辛く悲しい恋の妄執といった心のうねりを、優雅にしっとりと、そして品よく描いた曲です。六条御息所は、「葵上」でこそ、生霊になるほどの嫉妬心の持ち主として描かれましたが、源氏物語では、知性と教養溢れる魅力的な淑女とされています。そのように高貴で聡明な女性でも、寂しい境涯に置かれ、心の奥底で嫉妬、妄執を養うこともあるのです。人の世に生きることの悩みの深さ、思いの深さが沁みて来るように出来ています。
半蔀 京都、北山の雲林院に住む僧が、ひと夏かけた安居(あんご)の修行[夏安居(げあんご)とも。九十日間籠もる座禅行]を全うする頃、毎日供えてきた花のために立花供養を行っていました。すると夕暮れ時に女がひとり現れ、一本の白い花を供えました。僧が、ひときわ美しく可憐なその花の名は何か、と尋ねると、女は夕顔の花であると告げるのでした。畳み掛けるように、僧が女の名を尋ねると、その女は、名乗らなくともそのうちにわかるだろう、私はこの花の陰からきた者であり、五条あたりに住んでいる、と言い残して、花の中に消えてしまいます。里の者から、光源氏と夕顔の君の恋物語を聞いた僧は、先刻の言葉を頼りに五条あたりを訪ねます。そこには、昔のままの佇まいで半蔀に夕顔が咲く寂しげな家がありました。僧が菩提を弔おうとすると、半蔀を上げて夕顔の霊が現れます。夕顔の霊は、光源氏との恋の思い出を語り、舞を舞うのでした。そして僧に重ねて弔いを頼み、夜が明けきらないうちにと半蔀の中へ戻っていきます。そのすべては、僧の夢のうちの出来事でした。夕顔は、光源氏の恋人のひとりです。京の五条あたりでふと目にとまった、身分もわからない、夕顔の花のように可憐なこの女性に、源氏はいたく心引かれ、情熱的に愛します。しかし、それも束の間、連れ出した先で、夕顔は物の怪に取り殺され、短い恋は終わりを告げてしまうのです。この能は、この源氏と夕顔の恋物語を基としていますが、物語を描くよりも、夕顔の花そのものの可憐さに、はかなく逝った夕顔の君のイメージを重ね、花の精のような美しい夕顔を造形しています。すべては僧の夢、という結末につながる、幻のようなしっとりした優美さが際立つ能になっています。
素晴らしい皐月晴れの連休に、妻と二人で静かに本を読んでいます。松栄堂から購入した御香が聞こえて来ます。妻は「沙石集」や荻野三七彦博士や中村直勝博士の論文など難しい本で、私は「源氏物語」を。瀬戸内寂聴か谷崎潤一郎の現代語訳の本を買って来て読もうとしたら、妻から「原典主義じゃないといけませんよ」と釘を刺され、おろおろ致しました。「分からない部分があったら、何でも教えますから」と。仕方なく書架にあった原典を読み出しましたが、これがなかなか進みません。昨日から掛かってやっと「若紫」の段まで来ています。でも少しずつ慣れ、光源氏を取り巻く人間の相関関係も何とか謎ときしながら理解しつつ、一千年前に出来たこの稀有な小説を心から楽しんで読んでいます。確かに今までは能楽に取り上げられた一部分しか知らなかったので、ちょうどいいチャンスだったようです。 春野菜のパスタとアサリのスープで、簡単なお昼に致しましたが、妻は「光源氏は18名ほど関係した女性がいたけれど、あなたは今まで何人いましたか」とさりげなく風雲急に。どきっとして死ぬかと思いましたが、残念ながら、お互いに笑って終わりました。恥ずかしながら、厳密に言って初恋はこの年にして妻が最初でした。若い頃からの仕事で全くそれどころではありませんでしたのです。妻もどうやら最初であったようで、分かっている癖に!「つまり何人も異性の相手がいないと人間は満足しないのかなぁ」と誰に言うでもなくのたまうものですから、「それは人によりけりで、それはそれでいいんじゃない」とぼそりとコッショリ反論致しました。「私は源氏の中で言うと誰になるのかなぁ、紫上か葵上か、どう思いますか?」。まだ全部読んでいませんので、何とも返答に窮していると、「どっちでも嫌かも。案外花残里がいいかも」と笑いながら自由奔放。読み終わっている御仁には適いません。まぁそれを探り当てるのも今後の楽しみの一つです。18人と言う恋人が多いものか少ないものか、それも今後興味の尽きないところで、でもどうでしょう、この物語に出て来る女性たちの素晴らしさと気高さ。容易ならざる者へ逆にグングン興味を引かれる光源氏の習性。日本語の美しさ。連休中に堪能しながら読了出来ますかどうか。さてこれから取り敢えずお茶に致しましょうほどに。と、まぁこんな調子の他愛ないスローな生活が大好きです。
April 27 道成寺鐘供養
道成寺鐘供養
本日は和歌山県川辺にある道成寺で行われる鐘供養の日です。今月は殆ど櫻に頭が行っていて、私が大事にしている民間習俗によるお祭りの記事は潅仏会以外まるで出せませんでした。そこでその反省を籠めて四月に行われるお祭りを含めて書かせて頂きたいです。重要なお祭りを幾つかご紹介申し上げますが、四月花爛漫と咲く季節に、最も重要なお祭りは京都・紫野今宮神社境内の疫神社で行われる『やすらい花』でありましょう。本来の名前は鎮花祭(ちんかさい)と呼ばれ、花が開き始め花の精が一斉に飛散する頃、疫病がよく流行ったとされ、花を鎮めなければなりませんでした。これが鎮花祭の所以で、やすらい花とは、踊り歌の一連ごとの末に「やすらへ花やぁ~(花よ散るなぁの意)」という囃子言葉があるために、そう呼ばれておりましたが、他の地方では鎮花祭ときちんと呼ばれているようです。又、同様に鎮花(はなしずめ)としての意味を持つ京都・壬生寺に伝わる壬生狂言は、「壬生さんのカンデンデン」と親しまれ、21日から始まっており29日まで続き、都踊りとともに京都の春の風物誌となっています。カンデンデンは黙劇で、大念仏を修した後に、狂言踊りが30番あり、焙烙割(ほうろくわり)という素焼きの土器を割って厄落としを行ってから、大原女・棒振・湯立・舟弁慶・大江山・道成寺・花盗人など多くの演目が期間中ずっと演じられます。 更に日本三大山車祭で有名な春の高山祭もあり、春遅い山国を絢爛豪華な12台の山車が鮮やかに市中を彩ります。日光の輪王寺では修験者の古儀式である強飯式が御座います。開運の三天である大黒天・弁財天・毘沙門天と日光三社権現から御供(ごく)を賜る行事であり、国家の天下泰平と民衆の福寿増長を祈られたものです。長浜市では長浜曳山狂言があり、ここでも山車12台が出て、長浜八幡宮の春祭りとして有名で、曳山(=山車)で男の子たちによる子供歌舞伎が可愛く華麗に演じられます。一方島根県美保関の美保神社で執り行われる青柴垣神事(あおふしがきしんじ)という、少々物悲しい行事もあります。祭神の事代主命(ことしろのぬしのみこと)が、勅命を受けて国土 |