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May 15 葵祭り 仄かなる哀愁
葵祭り 仄かなる哀愁
早いものである。去年「葵祭り」を『斎王代・女人列御禊神事と葵祭り』として書かせて戴いてから、もう一年が経つ。本日五月十五日、京の都では「葵祭り」が挙行されていて、来年こそ一緒に観ようねと妻と約束していたのに、こんな怪我ではどうしようもない。去年も我が尊敬する道草先生がご丁重にコメントを書いて下さった。 「葵祭り」とは天皇の名代として斎王(天皇の内親王)が野宮から出て、上賀茂神社と下鴨神社の例大祭へご祈願に行く行事のことである。大同二年(807)に始まっており、延々と永い歴史がある。嘗ては旧暦四月中の酉の日に行われたが、明治十七年から五月十五日になった。京都で祭りと言えば、この祭りを指すぐらいの古来から有名な祭りで、現在斎王の制度がないために、上賀茂神社の社家や下鴨神社の氏子の中から、斎王代(さおうだい)が毎年選定され、華々しい平安絵巻を繰り広げている。野宮は斎王が精進潔斎した場所であり、葵祭りでは斎院であったが、未だにそこがどこかは定かではない。一方伊勢の神宮にも斎王が天皇の名代としてご祈願に行く慣例(神嘗祭などへ)が永いこと行われていた。こちらは斎宮と言い、伊勢の神宮から20キロも離れた現在の明和町に壮大な斎宮寮があったらしい。現在その発掘調査が進行しているが、余りの大きさに全部発掘調査が終了するのは100年近く掛かると言われている。どちらも処女の未婚者で内親王でなければならなかった。更にどちらとも野宮にお籠もりをして潔斎してから出掛けなければならなかった。葵祭りでは見物の順番(?前後)を巡って争い(源氏物語による)が絶えなかったが、ひと目斎王見たさの思いであったろう。又「源氏物語」では六条御息所が、前東宮の娘(後の秋好中宮)が斎宮となったために、その群行に同道するようになり、賢木巻で、光源氏と別れの舞台となったのも、この野宮であった(能『野宮』)。斎院や斎宮の斎王たちは通常は生涯独身を通すが、全く結婚があり得なかったものでもないようで、但し臣下と情を交わすのは不義密通となり、その職を放擲されたようである。華やかな舞台の影にはこうした女性たちの非情なる哀しみがあったのだろう。伊勢の斎宮は500年ほど続いたが、経費が大層掛かったためだろう、1330年代には終わっており、その後は現在まで勅使派遣に留まっている。いずれにせよ葵祭りには何処となく哀愁が感じられてならないのは私だけだろうか。今日の天候は最高であるだろう。 「葵祭り」では、二葉葵(写真左)が多く使われる。話題は本題から聊か離れるが、葵の葉っぱと紋章のお話を少々。この二葉葵を紋章とするのは、賀茂明神信仰から来ている。二葉葵は京都の上賀茂神社と下鴨神社のご神事に用いられて来たもので、別名カモアオイともいわれる。そして、賀茂祭には必ずこの二葉葵を恒例の神事として用いたことから、この祭を葵祭と呼ばれるようになった。このように葵は、賀茂祭に用いた霊草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、これを賀茂神社のご神紋としたのは言わずもがなである。『文永加茂祭絵巻』に、ご神事の調度品に葵紋が用いられているのが見られる。この頃から社家や氏子を通して家紋とし用いられたようだ。 葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・島田氏らが戦国時代前期頃から用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならないが、松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。 永禄九年(1566)、家康は朝廷に願い出て、松平から徳川に復姓した。このとき本家紋も、葵紋よりも新田源氏のシンボルである「一つ引両」にもどしてもよかったわけであるが、あえてそれをしていない。ここでも新田氏の子孫を称するには矛盾が出ているといえそうだ。葵紋は、家康が征夷大将軍となってから権威ある紋として、一般の使用を禁止し一門親藩だけに使用を許した。江戸時代には、将軍家と御三家および親藩の一部が使用した。しかし、一門で本末を区別するためにいろいろな葵紋があったようで、このように武家も賀茂神社のご威光を嵩にしたのである。
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文殊 普賢
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