<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?><?xml-stylesheet type='text/xsl' href='http://sakura-nokishita.spaces.live.com/mmm2008-05-08_20.17/rsspretty.aspx?rssquery=en-US;http%3a%2f%2fsakura-nokishita.spaces.live.com%2fcategory%2f%e6%96%87%e5%8c%96%2ffeed.rss' version='1.0'?><rss version="2.0" xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/" xmlns:msn="http://schemas.microsoft.com/msn/spaces/2005/rss" xmlns:live="http://schemas.microsoft.com/live/spaces/2006/rss" xmlns:dcterms="http://purl.org/dc/terms/" xmlns:cf="http://www.microsoft.com/schemas/rss/core/2005" xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"><channel><title>硯水亭歳時記　Ⅱ　: 文化</title><description /><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/?_c11_BlogPart_BlogPart=blogview&amp;_c=BlogPart&amp;partqs=cat%25E6%2596%2587%25E5%258C%2596</link><language>en-US</language><pubDate>Sat, 17 May 2008 00:07:21 GMT</pubDate><lastBuildDate>Sat, 17 May 2008 00:07:21 GMT</lastBuildDate><generator>Microsoft Spaces v1.1</generator><docs>http://www.rssboard.org/rss-specification</docs><ttl>60</ttl><cf:parentRSS>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/feed.rss</cf:parentRSS><live:type>blogcategory</live:type><live:identity><live:id>7831846612080327289</live:id><live:alias>sakura-nokishita</live:alias></live:identity><cf:listinfo><cf:group ns="http://schemas.microsoft.com/live/spaces/2006/rss" element="typelabel" label="Type" /><cf:group ns="http://schemas.microsoft.com/live/spaces/2006/rss" element="tag" label="Tag" /><cf:group element="category" label="Category" /><cf:sort element="pubDate" label="Date" data-type="date" default="true" /><cf:sort element="title" label="Title" data-type="string" /><cf:sort ns="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/" element="comments" label="Comments" data-type="number" /></cf:listinfo><item><title>鯉幟（こいのぼり）</title><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2704.entry</link><description>&lt;p&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfr1PPTRBgIYt3kEx6LNBOX93UWsv5HRF_fmHD_ezN4kRThzwx76xXropysATMOvsJg?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=507 alt="鯉幟" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfrG7dCvRtufm_EkTnnCQ34MwVNuZPIU4NrhLqazFlOEvmtKLbrQodW9eTnkT10GWBo?PARTNER=WRITER" width=472&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;　                                        &lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=5&gt;鯉幟（こいのぼり）&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt; 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;　私たちは過去、海外渡航する度に、鯉幟をよく持参致しました。日本文化を知って戴こうという趣旨と平和への願いからでした。多分２０００旒以上はお贈り申し上げて参りました。殆どは小さな鯉幟でしたが、公共の場にご寄贈する場合は加須市から特別に取り寄せた大きな鯉幟も多かったように思います。何処でも皆さんは大変に面白がり、大歓迎され楽しく受け取って戴けました。普段行くリヨン・パリ・チューリッヒ・ニューヨーク・パースはもとより、コピンヌハーゲンや南アフリカ共和国やアラスカやチリなど世界中へ配って参りました。ただ一つだけ気になる場所があります。チベットのラサにいらっしゃるお世話になったガイドさんへ差し上げた鯉幟です。あれはどうされたでしょうね。元気よく、あのエヴェレスト（中国名はチョモランマ）が見える紺碧の大空に舞ってくれればいいのですが、一刻も早く平和裡に自らのアイデンテティが守られる暮らしが出来るように、ひたすらお祈りするばかりです。 
&lt;p&gt;　端午の節句のもととなっている故事は、紀元前２７７年汨羅（へきら）の淵へ身を投じた屈原（くつげん）の御話があったからではありませんか。屈原は楚の国の忠臣で王に種々の諫言（かんげん）をしたのですが、受け入れられず、逆に江南に流されてしまいました。そこを秦に狙い撃ちされ、楚の国は秦に滅ぼされてしまったのです。哀しみのあまり屈原は祖国に殉じて身を投じてしまいます。そのことで、屈原は忠君愛国の代表人物として、或いは自由・正義・人民・祖国を愛し抜いた人として、現代に至るまで変わらず尊敬され続けています。その屈原が亡くなった日が五月五日で、この日江水においてはボートレースが行われます。又この日水底に没した屈原を悼んで、竹筒にお米を入れて水中に投じて祀らう習慣が出来たところ、蛟竜（こうりゅう）が来てその食物を盗んでしまうというお告げがありました。そこで盗まれないように、蛟竜が最も嫌う楝樹（おうちのき）の葉に包んで五綵（ごさい）の糸で縛って水中に入れたのです。これが現在も日本でも五月五日の食物になっています。いわゆる粽（ちまき）の原型です。このように誇り高き漢族には漢族の特有のアイデンテティがあり、一方、人懐こくて純粋無垢で敬虔な佛教信徒であるチベットにはチベット族独自のアイデンテティがあるのです。 
&lt;p&gt;　今度来日される中国の胡錦濤国家主席は４９年前の若かりし折、自ら先頭に立って指揮、チベットを徹底弾圧し武力制圧したその方です。その功績が江澤民（当時の国家主席）から認められ、今日まで出世階段を脱兎の如く上り詰めた方でした。本日３日チベット亡命政府から特使二人が派遣され、北京で６日まで非公式協議をすることになっていますが、中国政府のトップがトップですから劇的な進展は全く見込めないのです。国家を返せ、革命を起こすなどという過激な発言を、ダライ・ラマ十四世はどこででも、たった一度も話していないのです。チベット族特有の佛教文化のアイデンテティを守りたい一心だけで、完全に非暴力を訴える人です。その人を蔑視を籠めてダライ（ラマは尊称で、中国政府は一切尊称をつけない）反動的一派はなどと記者会見などで報道されるとつい哀しくなって来ます。従って殆どの希望を見出せないまま、私は同じ仏教徒として今朝早く起き出して、大日如来さま・弘法大師さまに深く深くお祈り申し上げました。せめて糸口を与えて戴きたいと。 
&lt;p&gt;　国家同士、先ずお互いのナショナル・アイデンテティを尊重することから平和的諸々の手段が講じられると思うのです。アフリカで展開されている中国とインドの資源をめぐる覇権争いも気になるところですが、当面オリンピックを控え、中国政府に自制と自重を求めたいと懇願してやみません。 
&lt;p&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfrosTDSMpUspbZStEekhVrJNAQ65mAlqP1rSYWnIFggXz5QRLTsUy2NGDKRtawN7dM?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=360 alt="中川一政" src="http://f42fug.blu.livefilestore.com/y1pFt23tMUp19abzw9WWmzqENCTRMe8yvQ0ytgU1fdHtVNd2luMLdQHylrhdlWgqblGSovpWHkPmJhqm85q9asTbw?PARTNER=WRITER" width=621&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" color="#c00000"&gt;画家・中川一政先生の書&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" color="#c00000"&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt; &lt;img src="http://c.services.spaces.live.com/CollectionWebService/c.gif?cid=7831846612080327289&amp;page=RSS%3a+%e9%af%89%e5%b9%9f%ef%bc%88%e3%81%93%e3%81%84%e3%81%ae%e3%81%bc%e3%82%8a%ef%bc%89&amp;referrer=" width="1px" height="1px" border="0" alt=""&gt;&lt;img style="position:absolute" alt="" width="0px" height="0px" src="http://c.live.com/c.gif?NC=31263&amp;amp;NA=1149&amp;amp;PI=73329&amp;amp;RF=&amp;amp;DI=3919&amp;amp;PS=85545&amp;amp;TP=sakura-nokishita.spaces.live.com&amp;amp;GT1=sakura-nokishita"&gt;</description><comments>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2704.entry#comment</comments><guid isPermaLink="true">http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2704.entry</guid><pubDate>Fri, 02 May 2008 23:36:26 GMT</pubDate><slash:comments>8</slash:comments><msn:type>blogentry</msn:type><live:type>blogentry</live:type><live:typelabel>Blog entry</live:typelabel><wfw:commentRss>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2704/comments/feed.rss</wfw:commentRss><wfw:comment>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2704.entry#comment</wfw:comment><dcterms:modified>2008-05-07T06:58:27Z</dcterms:modified></item><item><title>質素にして清く正しく心豊かであれ</title><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2048.entry</link><description>&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.live.com/y1pJ8agrUaWTfqUyKHsKeF0nWnpA1JM300eFaOWuzQHZBqR7-Rc5GzIdguj5uutkkzdOKvQZWQyeTI" target="_blank"&gt;&lt;img style="width:590px;height:447px" height=192 alt=00000037s src="http://blufiles.storage.live.com/y1pJ8agrUaWTfqUyKHsKeF0nWnpA1JM300eFaOWuzQHZBqR7-Rc5GzIdguj5uutkkzdOKvQZWQyeTI" width=256&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;　                             &lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=5&gt;質素にして清く正しく心豊かであれ &lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;　時々お邪魔させて戴いているブログに&lt;a href="http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;風にのって　花ひとひら&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;さまがあります。熱意のある文章と自ら描かれた魅力溢れる絵でいっぱいのブログです。今回の記事で神道方式でのご葬儀と埋葬に関する記事に出逢いました。畝傍山懐に抱かれた大きなお社で、記紀の時代に書かれた記述により、初代天皇とされた神武天皇を顕彰するため、明治天皇が明治２３年にご創建された&lt;a href="http://www.genbu.net/data/yamato/kasihara_title.htm" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;橿原神宮&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;を中心としたご父君と姉君のお話でありました。亡くなられたご父君は戦後、戦地から帰られてからご奉職なされたのが橿原神宮であったそうです。花ひとひらさまは５歳年上の姉君（享年２３歳）を亡くされ、３３年間の永きにわたってご自宅の神棚に彼女のご遺骨が祀られていたようで、ご父君がお彼岸明けの日に亡くなられてから早１２年。ご父君のご遺言通り今ではご父君と姉君が一緒になって近くの墓地にご埋葬されているようです。折りしも白梅の美しい凛とした花が咲き、見事な白梅の絵が掲載されておりました。 
&lt;p&gt;　橿原神宮とは、御祭神に神武天皇と皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命（ひめたたいらすずひめ）さまをお祀りされた&lt;a href="http://www.genbu.net/engi/syakaku.htm" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;旧官幣大社&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;のことで、皇孫・瓊瓊杵尊（ににぎのみこと）さまがわが国に降りられ、日向国・高千穂の宮におられましたが、天下の政治（まつりごと）を行うべくその子孫・神武天皇は遥々と東遷の途に出立なされたのでした。途中言語に絶する数多くの困難な道中に見合われ、６年の歳月を費やし、ついに大和国を中心とした中つ国を平定され、畝傍（うねび）山の東南の地である橿原の地において、宮廷をお建てになられ、ここにおいて即位の礼をあげられました。&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;『古事記』&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;には&lt;strong&gt;「畝火の白檮原宮（かしはらのみや）」&lt;/strong&gt;に坐して、天下を治めたと伝承されており、わが国の基をたてられた記述があります。第一代目の天皇であり我が国建国の始祖となられた神武天皇のご聖徳を顕彰し国家の安泰と国民の安寧を祈る場として明治期に建てられ、多くの篤い信仰を集めています。神武天皇は、辛酉（かのととり）の年１月１日、天皇は橿原宮にてご即位され、この年を天皇の元年とすると&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;『日本書紀』&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;には書かれてありますが、これを今の暦に直しますと西暦紀元前６６０年２月１１日ということにし、現在２月１１日を&lt;strong&gt;建国記念日&lt;/strong&gt;（&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E7%AF%80" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;紀元節&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;）に指定されています。在位期間は７６年間であったそうで、すると神武天皇は１２７歳まで生きていらっしゃったことになり、長寿を祈る意味もこの神社にはあり、皇家のいやさかを祈る場にもなっているのです。 
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfomUCUP0nsAFQWzSY2fQCgXxxk43QKBi3JKLBFe65072ojqNvf6L0TFJaBrB3WvX6Q?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=600 alt="橿原神宮祈念祭" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfq61HL5Mvmo3hRs5WwgIk2vPrMYSo8i_i81gIgccpdMo7ChEmltit98sSaj0q6pnW0?PARTNER=WRITER" width=400 border=0&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;
&lt;p&gt;　ところで今年私が参拝させて戴いた折、右翼の街宣車が多く集まっていました。橿原神宮はいつの間にか右翼街宣車の聖地となっているようで、もし暴力的な諸団体であれば甚だ不愉快で残念でなりません。然し単純に&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%BF%BC" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;右翼&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;と片付けられない様々な重要な問題もあります。難しい表現ですが、私は仮の意味で&lt;strong&gt;右派急進主義&lt;/strong&gt;を&lt;strong&gt;右翼&lt;/strong&gt;と呼ぶことにしておきましょうか。更にちょっと話題が反れて恐縮ですが、日本人はこれらの重要課題に何時から避けるようになって来たのでしょう。日本史の教育だって常に近代日本史を避けられて来たではありませんか。明治維新のさわりを終えると、３学期の一番最後に、後はザラッと読んでおけぇ！という程度の教育が多かったように思われてなりません。歴史上最も身近な近代史から勉強を始めましょうという教師はただ一人もおりませんでした。逆に神話の世界も難解なためか少なかったように思われますし、どちらにしても&lt;strong&gt;何か&lt;/strong&gt;を避けて来られたのです。今後はそれではしょうがないのではないでしょうか。確かに橿原神宮においては神武天皇のご陵墓そのものが江戸時代後期から少しずつ造り続けられたという経緯もあり、明治という政治的な思惑で造られた官幣社であった事実は間違いないことですが、フィクションの世界だと単純に決めつけるのは如何なものでしょうか。決してその何かを避けてはならないでしょう。大戦後官幣社の制度は廃止されましたが、神話の世界も官幣社の信仰も最初から疑念だけを抱いては何も始まらないのではないでしょうか。先ず虚心坦懐にしてコトに臨むことが重要なことだと信じます。 
&lt;p&gt;　アドルフ・ヒトラーを初めとしスターリン、オサマ・ビンラディン、タリバン、ポルポト、チャウチェスク、金正日、更には日本軍部、特に関東軍、過去も現在も独裁政治と強権主義をともなった恐怖政治とテロリストは無数に存在しておりますし、決して過ぎ去った日のことではなく現代の問題でもあるのです。昔日あの十字軍だってそうだったかも知れませんし、文化大革命時代の四人組みだってそうだったかも知れませんし、極論ですが現在のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュだって永い目で見ればその一員に入るやも知れません。いずれにせよ極端な&lt;strong&gt;&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E4%B8%BB%E7%BE%A9" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;原理主義&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;や特定の人たちだけ（石油利権や武器商や植民地主義など）の利益追求では罪もない犠牲者が中途半端な人数では済まされないのです。何故そのように出来るのか、或いは成立するのかを含めて、広く深く大いに議論すべきです。 
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfp7BlaS2V-caW-5qEWexy-FWbCD0M1Ocu6c0Uf2wh-UZotzSKkMYsoMP0YT0-cnLWY?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=400 alt="橿原神宮祈念祭" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpeU_9JT3eOsU0TX5AE-pWT_qxyksxxm-4JSHmPE12bBMLWnYibvzBxPeKzhn1bN6w?PARTNER=WRITER" width=600&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;
&lt;p&gt;　一体全体&lt;strong&gt;何か&lt;/strong&gt;とは何でしょうか。私が申し上げたい何かとは、&lt;strong&gt;日本人としてのしんばり棒（精神的支柱）&lt;/strong&gt;のことです。和とは何かを含め、あやふやな答えは避けるべきだと申し上げたいのです。曖昧なことが日本人をグローバルなポイントから遠ざけて参りました。この際黒白をはっきりとつける習性を身につけたいものです。だからといって他民族を排斥しようとし日本人優位とする民族主義のことを申し上げるつもりはさらさらありません。&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E7%9C%9F%E6%B7%B5" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;賀茂真淵&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;や&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;本居宣長&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;など江戸の国学者たちをどなたが右翼だと断定し排斥しようとするのでしょうか。無論彼らを絶対視する人は皆無だとは申しません。でも国学を柔軟にしっかり見定めることが何よりも大切なことでしょう。そこで少々飛躍を致しますが、&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;司馬遼太郎&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;の小説に&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9B%B2" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color="#ff0000"&gt;『坂之上の雲』&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;というのがあります。近代日本を読み解くのに最も適切で貴重な小説です。明治時代の日露戦争が小説の時代背景ですが、太平洋戦争で司馬遼太郎は学徒出陣をして満州に行き戦車隊に配属され、いかなる心境をもってこれを書かざるを得なかったのでしょうか。小説には彼が大好きだった&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;正岡子規&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;が出て来ますが、そこに更に重要な役目を担った二人の兄弟が登場します。兄・&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%A5%BD%E5%8F%A4" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;秋山好古&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;（よしふる）と弟・&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E7%9C%9F%E4%B9%8B" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;秋山真之&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;（さねゆき）兄弟です。二人とも下級武士の&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E5%A3%AB" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;徒士組&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;（かちぐみ）の出身でしたが、勉学すれば出世が出来る当時の風潮がこの兄弟と正岡子規の三人を奮い立たせます。幕末で松山藩が幕府側についたために松山出身者はみな冷遇されましたが、そこを努力によって弟の真之は海軍に入り東郷平八郎を助けます。対ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦が勃発し、真之は東郷司令官を助け、殆どの作戦を立案し実戦、辛くも戦勝致しました。この時国民全員が狂喜乱舞したと伝え聞いています。真之は戦後僧侶となって亡くなった者たちへの供養と鎮魂をしたかったのですが、果てせぬまま４９歳で亡くなりました。兄の好古だって家計を助けるために陸軍に入り騎馬隊を編成し鍛え上げ、対ロシア・コザック戦線では大活躍をし勇名をはせました。後に陸軍大将まで上り詰めたのですが、晩年の好古は地元松山に戻り高等学校に赴任。校長として活躍後、息子たちをただ一人も軍人に出さず逝ってしまいます。一方明治元年生まれで真之と同年にして大親友の正岡子規は病弱なイメージがありますが、なかなかどうして元気のいい若者だったらしく、特にアメリカの野球を紹介し、現在でも野球用語の多くは正岡子規の命名によって残されています。当初野球を（のボール）と本人の本名・升（のぼる）を引っ掛けてつけてみたりお茶目な部分もあったようです。残念ながら彼は３４歳の若さで病死しました。&lt;strong&gt;徹底した写生主義で、俳句のみならず、その後の文壇にどれほど甚大な影響を与えたことでしょう。絵も描き今日まで子規渾身の写生画が数多く残されています。その三人を機軸にして司馬遼太郎の『坂の上の雲』は成立しています。&lt;/strong&gt; 
&lt;p&gt;　&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;日露戦争&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;は実は&lt;strong&gt;首の皮一枚の差&lt;/strong&gt;で勝利致しました。この勝利はロシア側の不都合で勝ったといっても過言ではなかったのです。そこから軍部を中心に日本全土に元寇以来の&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%A2%A8" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;カミカゼ神話&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;を創り上げ、ううんでっち上げと言った方が適切かも知れません。&lt;strong&gt;経済力の貧困をひた隠しに隠して、日本国民を神の国の民びとに仕立て上げ、日本人を痴呆化させていったのです。何とこの日露戦争とのギリギリの勝利から、&lt;/strong&gt;&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;太平洋戦争&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;&lt;strong&gt;に負けるまで&lt;font color="#ff0000"&gt;たった４０年の年月&lt;/font&gt;でしかありませんでした。自国の内実を無視し、国力増強に欠かせない資源をめぐって拡張（軍拡）路線を急ぎ過ぎた所為でした。&lt;/strong&gt;それが証拠に太平洋戦争に勝利した期間はたったの半年で、残り三年半は敗走に次ぐ敗走の連続であったではありませんか。これも国民には実態を知らされることはなかったのです。従って現代の北朝鮮を愚弄するわけにはいかないでしょう。戦後&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/GHQ" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;ＧＨＱ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;によって民主主義の路線に代えられるますが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』はまさしく&lt;strong&gt;日露戦争を背景にしたあの時から、日本人が完璧に痴呆化され悲劇が始まったと&lt;/strong&gt;結論づけ、今後の日本の在り方に正しくあれと警鐘を鳴らし続けている最も大切な小説です。（尚最新のビッグニュースですが、『坂の上の雲』の映像化がＮＨＫで進められており、来年から三年に渡って全１３話（１話９０分）が放映される予定です。 普段の大河ドラマでは１話６０００万円掛かるらしいのですが、こちらはもっとビッグで１話４億円以上掛かるというのですから、如何にＮＨＫが全力を挙げているかがお分かりだと思われます。放映が楽しみでなりません） 
&lt;p&gt;　あのアフガンでタリバンが犯した&lt;strong&gt;バーミアン遺跡&lt;/strong&gt;の爆破を失笑している場合ではありません。明治時代に&lt;strong&gt;『廃仏棄却』&lt;/strong&gt;と&lt;strong&gt;『神仏分離』&lt;/strong&gt;という信じられない風が吹き荒れたのですから。歴史的に観て&lt;strong&gt;政教分離&lt;/strong&gt;であることは先ず第一に実行しなければならないことです。騒動以来チベット自治区の人々に過酷な弾圧を強要している現中国政府の&lt;strong&gt;チベット軍事解放&lt;/strong&gt;をただ愚弄するだけではいけません。旧日本軍は近隣諸国の文化を蹂躙したばかりか、多くの隣人を殺戮して来たのですから。北朝鮮の&lt;strong&gt;日本人拉致事件&lt;/strong&gt;を人ごとのように思ってはなりません。多くの韓国人や台湾人を、時には戦闘のため、時には過酷な労務のため、そしてなかんずく従軍慰安のため、元通りには決して復元出来ないけれど、どちらともきっちりと解決しなければならないのです。無論あれもこれも一緒くたには出来ないものの現在起こっていることと過去に起きたことを、きっちり一線を引いて峻別することが筆者には出来ないのが情けなく戸惑いは否めません。折りしもこの週末に見ごろを迎える櫻の時季です。旧日本軍が、&lt;strong&gt;良寛和尚&lt;/strong&gt;の俳句&lt;strong&gt;「散る櫻残る櫻も散る櫻」&lt;/strong&gt;を白兵戦（武器を持たずに相手陣内に攻め入ること）で潔く死ぬために教えたと、筆者はそのことに激烈な怒りを持って当時の軍部中枢を糾弾し断罪しあまりあり、和尚の句を二度とそのような不埒な考え方に組み入れないで頂きたいと強要したいです。 
&lt;p&gt;　戦後の昭和期は列島改造に始まって、まさに怒涛のような狂乱地獄でした。前後しますが左翼・右翼が入り乱れた&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/安保闘争" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;安保&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;があり、オイルショックがあり、過激派による浅間山荘事件などの大きな事件もありました。オカルト教団による酷いテロ・&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/安保闘争" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;地下鉄サリン事件&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;もありました。&lt;strong&gt;家族の絆やあるべき絆&lt;/strong&gt;が失われつつあり、今までなら考えられない事件・事故が相次いで新聞などに満載されています。自然災害も半端なものではありません。その隙間バブル期には経済ヤクザが介入し土地成金なるものまで登場致しました。シッチャカメッチャカの状態だったのです。頂点は&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E7%B5%8C%E6%B8%88" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;バブルの全盛期&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;だったでしょう。バブルが思い切りはじけてやっと日本人は&lt;strong&gt;痴呆な夢から醒め&lt;/strong&gt;、漸く経済だけを重視することは可笑しいのだと気付かされました。さて今後日本はどんな選択をして生きてゆくべきでしょうか。筆者は先ず精神的昂揚を掲げたいのです。簡単に言えば&lt;strong&gt;&lt;font color="#ff0000"&gt;「自信を持て！元気を出せ！」&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;でありましょうか。いずれにせよ喫緊の課題は山積しています。特に最近の政治家には大物と呼ばれる政治家が極端に少なくなっていて、映画界でいえば名脇役の喪失といったところでしょうか。百年後及び千年後を見据えた大計や哲学を抱えた政治家はほぼ皆無でしょう。政局にだけ汲々としている政治家のいうことは何をいってもアテにもしませんし信用出来ません。 
&lt;p&gt;　明治維新の時新政府樹立を目の前にして、&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%AB%9C%E9%A6%AC" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;坂本龍馬&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;は新しい憲法の草案まで創りながら、新政府の中に入ろうとしませんでした。何故だったのでしょうか。もし龍馬が生きていたら明治は極端に変わっていただろうと勝手に浪漫を抱くのです。彼なら帆船に乗って大海原に出て、積極的に貿易振興を推し進め、専ら&lt;strong&gt;殖産興業&lt;/strong&gt;に相勤めていたのではないでしょうか。薩長連合軍の犠牲者が靖国神社に祀られていたのが、現在では護国神社で祀られています。何故薩長連合軍はそこまで好戦的だったのでしょう。徳川方にも有能な人材はたくさんいただろうにと思うのです.。旧藩閥の立場が冷遇・厚遇の差を生み、それがゆがんだ軍部を形作っていったのだろうと簡単に想像されるのです。松山藩出身の秋山兄弟は決して軍人を目指したのではなかったのです。子規のようにどれほど最初っから文人になりたかったか痛いほど分かります。下級武士の貧乏がそれを許さなかっただけでした。初めての国家を持って初めての国民であった我ら直ぐ前のご先祖たちが経験したのは昨日のような出来事です。清新な高揚した気分は一部の人間に容易に左右されたのでしょう。更に天皇陛下がご参拝出来る靖国神社であらねばならないと私は考えます。&lt;strong&gt;清らかな神道と深い大乗仏教から伝統的に裏打ちされた静かな平和主義（長崎を中心とした日本型カトリック教の方々も伝統の中に当然入るべき）が日本国民の証で誇りです。&lt;/strong&gt;どの国家よりも積極果敢に平和主義を提唱し、先頭に立って果敢に国際貢献を果たすべきですし、侵略戦争は永久に放棄すべきです。明治維新の藩閥政治から歴史をつぶさに正確に勇気を持って自己批判しつつ総括すべきです。 
&lt;p&gt;　私は敬虔なる佛教徒で真言密教宗徒です。醍醐寺派でも長谷寺派でも智積院派でもありません。本山の中の或る御坊＝禅宗的に言えば塔頭（たっちゅう）に所属しており、新興宗教の一員でもありません。&lt;a href="http://www.koyasan.or.jp/index.html" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;高野山&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;は我が心の故郷です。高野山には&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;熊野権現&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;さまがいらっしゃって、高野全山をご守護して下さっております。佛教と神道は何ら違和感がありません。かの聖徳太子ご自身だって神道のお家柄のご出身者でもありましたし佛教に特別深いご理解を戴いた方ではなかったでしょうか。密教の秘儀に関するところから&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E8%80%85" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;修験者（山伏）&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;にも相乗的に相互交流が当然御座います。今回の記事は橿原神宮のことから始めました。神宮をフィクションだと一笑に付すのは実に簡単なことです。でも橿原神宮は戦後官幣社でなくなり、つまり庇護する拠り所がなくなって、現在では郷社のように地元住民の方々や全国においでの奉賛会の方々からのご寄付を受け付けることによって成り立っています。檀家を持たない薬師寺と似た方式で営まれています。私は右翼ではありませんので街宣することは決してありませぬ。でも今後も橿原神宮へご参拝に参るでしょう。尤も私の場合伊勢の神宮が最も多いですが、&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;神道&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;とは&lt;font color="#ff0000"&gt;&lt;strong&gt;『祓い』&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;font color="#000000"&gt;と&lt;/font&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color="#ff0000"&gt;『清め&lt;/font&gt;』&lt;/strong&gt;だけの至って簡素にして清潔で清楚な信仰の宗教です。&lt;strong&gt;八百万の神々&lt;/strong&gt;だって何て民主的な形態・形状ではありませんか。文章に書かれた聖書のような文物＝教義が一切御座いません。ですから時の為政者に都合がいいように利用されることが多かったようです。イギリスの世界的歴史学者&lt;strong&gt;アーノルド・トゥインビー&lt;/strong&gt;教授が伊勢の神宮を２度もご参拝され、世界でただ一つ残された最後の興味ある宗教は日本の神道である、大いに研究すべきだと仰いました。天皇家家系存続問題の理由からではなく、神道が始まる以前の日本人の&lt;strong&gt;&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%A0" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;アニミズム信仰&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;にまで遡って私は信仰の対象としたいと存じています。 
&lt;p&gt;　&lt;strong&gt;&lt;font color="#c00000"&gt;『質素にして清く正しく礼節を重んじ心豊かに』が日本人の特徴であり誇りです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;花ひとひらさまのご父君や姉君に対する弔意を、この一文に精魂を籠めて託し終わらせて戴きます。ご父君が橿原神宮に奉職されたのも双方の戦争犠牲者に対する真摯な鎮魂の思いがあったからでしょう。であれば、花ひとひらさまのご父君や姉君もきっとこの一文をお歓び戴けるものと堅く信じます。神話の世界から現代まで無理な駆け足で走った結果、少々雑駁な長い文章になってしまい甚だ恐縮でした。最後までお読み戴きまして真に有難う御座いました。心から深く御礼を申し述べます。 
&lt;p&gt;　 
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfruh7015PnRRyYAbUcyaelZ4-YmJhwa3TAxYBY0NiNa4VuXtcVYcRAojvF4pzvoxAY?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=400 alt="橿原神宮紀元祭" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpBH9ZRCG8fTloQtVszFrTSdPB1ovZ2jWQ7hkj5Zjj6nuCe-BEOYxSSjNhNEhFXN5g?PARTNER=WRITER" width=600&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p align=center&gt; &lt;img src="http://c.services.spaces.live.com/CollectionWebService/c.gif?cid=7831846612080327289&amp;page=RSS%3a+%e8%b3%aa%e7%b4%a0%e3%81%ab%e3%81%97%e3%81%a6%e6%b8%85%e3%81%8f%e6%ad%a3%e3%81%97%e3%81%8f%e5%bf%83%e8%b1%8a%e3%81%8b%e3%81%a7%e3%81%82%e3%82%8c&amp;referrer=" width="1px" height="1px" border="0" alt=""&gt;&lt;img style="position:absolute" alt="" width="0px" height="0px" src="http://c.live.com/c.gif?NC=31263&amp;amp;NA=1149&amp;amp;PI=73329&amp;amp;RF=&amp;amp;DI=3919&amp;amp;PS=85545&amp;amp;TP=sakura-nokishita.spaces.live.com&amp;amp;GT1=sakura-nokishita"&gt;</description><comments>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2048.entry#comment</comments><guid isPermaLink="true">http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2048.entry</guid><pubDate>Tue, 25 Mar 2008 05:54:29 GMT</pubDate><slash:comments>0</slash:comments><msn:type>blogentry</msn:type><live:type>blogentry</live:type><live:typelabel>Blog entry</live:typelabel><wfw:commentRss>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2048/comments/feed.rss</wfw:commentRss><wfw:comment>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2048.entry#comment</wfw:comment><dcterms:modified>2008-03-27T07:36:44Z</dcterms:modified></item><item><title>薬師寺・花会式と国宝・薬師寺展</title><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2026.entry</link><description>&lt;p&gt;　 
&lt;p&gt;     　　 &lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfox73PgLzELvyhZfiJHBeqd6gn-8Kjz2ShI5s1TZRXRzl47WrCF1eEo83IXgWriUC0?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=199 alt="薬師寺" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfr6VNWCkhPu067MQoCmUceZ8cK-fH4hMws7tdK1UEOEjiIx4UZ9xk30FyRonA4Bo_4?PARTNER=WRITER" width=134&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpUj-CogEzTibQ2UEWKwgYL3lnwHBQvNYmcd88YsggrsNij_hQG3mSH_oceqOj2T3w?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=199 alt="薬師寺" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfoXYA44sXpMZUkLnPhLfwxoFBu8oZWDpDiZS7br4NL5Y61loWhrn2z1pj7N7jbohEw?PARTNER=WRITER" width=265&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpu3COyLmOZzSdYuYNzDzaC6_bJfvru1-1fKnKjo0nG_2fgsT2JeysC1TKiRAnM_0g?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=198 alt="薬師寺" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpwq06jcmcWt9BwpX5wYu2ms5Qxtiv15NjAKs-WDABg7OVfasaCyeKX-MGPrfPY3Nw?PARTNER=WRITER" width=298&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;　　　　　　　　　　　　　　&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=6&gt;　薬師寺・花会式と国宝・薬師寺展 &lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;　春の麗らかな陽気に誘われて大和路へ、西ノ京にある清冽な御寺・&lt;a href="http://www.nara-yakushiji.com/" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;薬師寺&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;。６８０年、天武天皇が菟野讃良皇后（うののさららひめみこ）＜のちの持統天皇＞の病気平癒のため発願され、創建された法相宗の大本山で、創建当時は藤原京に建てられたものですが、７１８年に平城遷都に伴い現在の場所に移転されました。造営は８０８年頃まで続きましたが、数度の災害と１５２８年の兵火によって、当時の建造物は残念ながら東塔のみ往時のまま現存しております。そもそも薬師寺は佛教に関する学問所であったために、お葬式などをやる御寺ではなく檀家さまを一切持ちません。従って何の収入のあてもないのですが、金堂は１９７６年に、西塔(千年後東塔と同じ高さになるように西塔の高さが若干違う）は１９８１年に、中門は１９８４年に、回廊は１９９１年に一部が、それぞれ有縁の人々のお写経勧進（有料）や入場料などによって復興されて来たのです。 当時の故&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%A5%BD%E8%83%A4" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;高田好胤&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;管主が企業献金など一切受けつけずに、一般人の心ある方々による写経によって写経料を集め復興したことはあまりにも有名で御座いましょう。 
&lt;p&gt;　今月３０日から４月５日まで薬師寺では&lt;a href="http://www.nara-yakushiji.com/guide/hanaesiki/index.html" target="_blank"&gt;&lt;strong&gt;&lt;u&gt;花会式&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;が行われます。東大寺のお水取りと同じような&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E4%BA%8C%E4%BC%9A" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;修二会&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;のことで、花会式とは本尊の薬師如来さまに対して行われるもので&lt;strong&gt;、「薬師悔過（やくしけか＝声明であり星まつりを兼ねる）」&lt;/strong&gt;の行法を行う修二会の別称なのです。大きな１２個の鉢にさまざまな造花が盛られ、、薬師三尊さまを荘厳することから花会式呼ばれ、金堂で行われます。薬師寺の修二会とは元来旧暦２月に修する法会のことで、ご本尊さまに罪障を懺悔して罪垢を清め、国家繁栄や五穀豊穣を祈願する行になっているのです。１１０７年、堀河天皇が皇后の病気平癒を薬師如来さまにおすがりし，薬師寺の薬師如来さまに格別のお祈りをされたところ、無事快復なさいました。皇后はその感謝をこめて、翌年より宮中の女官と紙の造花をつくり、薬師寺の修二会にお供え申し上げたのです。造花は椿・梅・桃・櫻・山吹・杜若・藤・牡丹・百合・菊の１０種で、一見華やかな花会式に見えますが、僧侶たちには現に厳しい行法であり、東大寺と同じように&lt;strong&gt;錬行衆（れんぎょうしゅう）&lt;/strong&gt;と呼ばれる僧侶たちがこれにあたります。行の中心をなす「初夜の行」では堂の灯りがすべて消され、鐘、太鼓、ほら貝が響き渡り，剣を両手に振りかざした&lt;strong&gt;呪師&lt;/strong&gt;（しゅし）が堂内を走り、結界をつくる&lt;strong&gt;「呪師走り」&lt;/strong&gt;が行われます。結願の最後の悔過法が終わった５日の夜８時には&lt;strong&gt;「鬼追式」&lt;/strong&gt;が行われ、松明を持った黒、青、赤の親子の鬼が堂外にあらわれ、金堂の周りを乱舞し、大声で叫び、お堂をかけめぐりますが、やがて毘沙門天があらわれ鬼を退散させてくれるのです。修二会の最後に鬼が現れるのは&lt;a href="http://www.kasugano.com/kankou/hasedera/index.html" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;長谷寺のだだおし&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;と共通していますね。幽玄な情景のなかに大和の春の到来を感じられる素晴らしい行事です。尚花会式期間中に舞楽や能の奉納もありまして、見学者には大変楽しみなことであります。 
&lt;p&gt;　　　　　　　&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfoz9PtEsvEDxNSWZGPvqrBmjb4_XW9DXVPi8GgYq0Zg4I61p7W93WYYt-fQmKAJZJs?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=207 alt="薬師寺" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpFEe0-A1v1FuaWlfaz4onm4YypSaSkzRZvo15o_rtax4YXKF_10LdslAKpgmpeHMA?PARTNER=WRITER" width=167&gt;&lt;/a&gt;　&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfrKAmq5jTics-8jQdsUTO_nv69cPnR_ZK7RAkqBuMyFkEY7tuIuZ0VwOx7D2ZmOk6k?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=208 alt="入江泰吉写真『宵月薬師寺伽藍』" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfqGNEoC5ALwJvn5Tbq0Iwkc5LaaS_nY7P3mo4BbDOyDDMna_FjieiudAwowXjkIBAI?PARTNER=WRITER" width=265 border=0&gt;&lt;/a&gt;　&lt;img height=208 alt="玄奘三蔵院" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfrYbydhyKCcPxp5e0MEPw8yRZJbexrD4VS5eb09L-pvLcMkKkg-lyIO2i_ahDqIPpw?PARTNER=WRITER" width=236&gt; 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;　薬師寺の東塔（写真左は創建当時のまま）は、奈良時代に建てられた東搭であり、各層に裳階とよばれる庇があり６層に見えるのですが、実は三重搭なのです。その複雑な造りから&lt;strong&gt;「凍れる音楽」&lt;/strong&gt;とも称されており、先端部分にある水煙には美しい２４人の飛天像が透かし彫りされています。写真右のお堂は『西遊記』の三蔵法師として有名な&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%94%B5" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;玄奘三蔵&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;（この方がおいででなかったら今日私たちは殆ど経文を知ることはなかったでしょう。&lt;a href="http://www.nara-yakushiji.com/guide/genjyosanzo.html" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;玄奘三蔵の生涯&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;)を記念して造られた最も新しいお堂で&lt;strong&gt;玄奘三蔵院伽藍&lt;/strong&gt;と申しますが、中には&lt;a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/平山郁夫" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;平山郁夫&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;画伯の大唐西壁画が悠久で壮大な壁画として描かれています。故高田管主と２０世紀までに奉納するとの約束を果たされて描かれた巨大な壁画で、実際にシルクロードを歩かれ、ヒマラヤに登山して描かれた感動的な素晴らしい絵であります。又夜になると西塔、東塔、金堂がライトアップされ、御寺が浮かびあがります。奈良時代からこうして現代に伝えられた凄みにきっと驚かれることでしょう。尚西塔の傍には&lt;strong&gt;会津八一&lt;/strong&gt;の歌で&lt;strong&gt;『すいえんの　あまつをとめが　　ころもでの　ひまにもすめる　あきのそらかな』&lt;/strong&gt;の歌碑が、更に東塔の傍には&lt;strong&gt;佐々木信綱&lt;/strong&gt;の歌で&lt;strong&gt;『ゆく秋のやまとの国の薬師寺の塔のうへなる一ひらの雲』&lt;/strong&gt;と同じく信綱の歌で&lt;strong&gt;『秋ぞらはきよらに澄めり水煙の天女のすがたけざやかに見ゆ』&lt;/strong&gt;の二首の歌碑が立っています。 
&lt;p&gt;　ところが今年の花会式にはご本尊の薬師如来さまの脇佛である日光・月光菩薩さまがいらっしゃいません。東京の国立博物館で&lt;a href="http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&amp;amp;processId=01&amp;amp;event_id=5129" target="_blank"&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;平城遷都１３００年記念『国宝　薬師寺展』&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;&lt;strong&gt;（２００８年３月２５日&lt;/strong&gt;　&lt;strong&gt;火曜日～６月８日　日曜日まで）&lt;/strong&gt;が開かれるためであります。薬師寺には昭和５１年に復元された金堂に、薬師三尊像（国宝）が安置されていて、我が国仏教美術の最高傑作といわれる白鳳時代の金銅仏で、&lt;strong&gt;日光菩薩・薬師如来本尊・月光菩薩&lt;/strong&gt;のご三尊のことですが、先日日光・月光両菩薩さまがお身払いを受けるように大切に光背が外されている模様がテレビで放映されました。ご本尊の薬師如来さまは御寺を今までの通りご守護なさいますが、両菩薩さまが揃って旅立たれることは御寺史上初めてのことです。国立博物館では光背がない状態で公開されるらしく、見学者は御仏さまをグルリと回って、普段観ることが出来ない菩薩さまの後ろ姿も拝観出来るようです。本場の花会式には何とも申し訳ないのですが、我々遠くにいるものにとってどれほど有難く、特別に臨時で私たちの花会式になることでしょう。尚他の国宝級の展示物もあるようですが、今から楽しみでなりません。薬師寺内にある東院堂には、吉備内親王が母・元明天皇のために７２１年創建されたお堂で、現在のは鎌倉時代１２８５年に再建されたようです。堂内には私が大好きな&lt;strong&gt;聖観音立像（国宝）&lt;/strong&gt;が漆黒のお姿でスックと真っ直ぐに立たれており、&lt;strong&gt;四天王像（国宝）&lt;/strong&gt;や&lt;strong&gt;文殊菩薩坐像（国宝）&lt;/strong&gt;などもご安置されておられます。この中のどなたさまがご一緒においでになられるのでしょう。本当に有難いことで歓びに堪えません。私の大好きな&lt;strong&gt;聖観音立像（国宝）&lt;/strong&gt;は高さ１,９メートルあり、１９歳で刑死した有間皇子をモデルにしたという説も御座います通りの青年像で、凛々しいお姿で立たれておいでです。櫻爛漫と咲く上野の森にいらっしゃるのは、私たち関東人にとって何かのいいご縁でありましょう。皆さまがたにおかれましては、ご機会が御座いましたら、是非どうぞご見学に訪れられたらいかがでしょうか。私は付き添いを一人依頼し車椅子にひかれることになりますが、家内ともども参る所存です。本日はお彼岸中のかのえ、さるの日で、午前中家族全員四人で母のお墓参りに行けました。嬉しいことで有難いお天気でした。お陰様です。 
&lt;p&gt;　 
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpNjIArnaZ1DKxG-XJW9aesNll44aiTAYhsIBpw9oeuEzmuLbOe5jXyNx_baMdCSvs?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=768 alt="薬師寺" src="http://iy0gxw.blu.livefilestore.com/y1pFt23tMUp19YyhOsvVvw17Ze1F4Fq6vIqn12751q1JYH5pQRFo0edakVS9aJfHrTXJ-qk0-U_z1ROfQGrtS1a0A?PARTNER=WRITER" width=500&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" color="#7030a0"&gt;&lt;strong&gt;金堂内　国宝・日光菩薩像 &lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" color="#7030a0"&gt;&lt;strong&gt;  &lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blu1.storage.msn.com/y1pKJala_M-oubekLsaKZsMAGNR9-xI37nypniqZCP6r3CqhMvEYwla2OmQoyC_Oh6msAGnHLPDolVUqHd_trvZqSTbcQhvhcdJ?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=768 alt="薬師寺東院" src="http://iy0gxw.blu.livefilestore.com/y1pgbx9wpr2IR89G9r0qbQj9-we4ZZz8uo3T7CK2ZS_rg9WB8w2cIHXVMbVvII621KnwBSRG4_AQ4IiXNhdjLSdyvmNyiawTtOt?PARTNER=WRITER" width=524 border=0&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" color="#c00000"&gt;&lt;strong&gt;東院堂内　聖観音立像&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" color="#c00000"&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" color="#00b050"&gt;＜おことわり＞　薬師寺の一葉は入江泰吉さんのお写真で、下の大きな二葉は土門拳さんのお写真です。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" color="#00b050"&gt;当然著作権は両者に帰属して御座いますことをおことわりしておきます。ご協力を感謝申し上げます！&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;img src="http://c.services.spaces.live.com/CollectionWebService/c.gif?cid=7831846612080327289&amp;page=RSS%3a+%e8%96%ac%e5%b8%ab%e5%af%ba%e3%83%bb%e8%8a%b1%e4%bc%9a%e5%bc%8f%e3%81%a8%e5%9b%bd%e5%ae%9d%e3%83%bb%e8%96%ac%e5%b8%ab%e5%af%ba%e5%b1%95&amp;referrer=" width="1px" height="1px" border="0" alt=""&gt;&lt;img style="position:absolute" alt="" width="0px" height="0px" src="http://c.live.com/c.gif?NC=31263&amp;amp;NA=1149&amp;amp;PI=73329&amp;amp;RF=&amp;amp;DI=3919&amp;amp;PS=85545&amp;amp;TP=sakura-nokishita.spaces.live.com&amp;amp;GT1=sakura-nokishita"&gt;</description><comments>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2026.entry#comment</comments><guid isPermaLink="true">http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2026.entry</guid><pubDate>Fri, 21 Mar 2008 08:01:12 GMT</pubDate><slash:comments>2</slash:comments><msn:type>blogentry</msn:type><live:type>blogentry</live:type><live:typelabel>Blog entry</live:typelabel><wfw:commentRss>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2026/comments/feed.rss</wfw:commentRss><wfw:comment>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!2026.entry#comment</wfw:comment><dcterms:modified>2008-03-21T08:57:10Z</dcterms:modified></item><item><title>稲の伝来</title><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1873.entry</link><description>&lt;p&gt;　    
&lt;p&gt;              &lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpUYrzp-Ji5HcVcK6qcUQvxdYNq78p7fkMOrpPfYtb5DkW9O9YjjDigJHZ86ms3Zq8?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=228 alt="胡蝶の舞" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfqV59HO96K_8CU7i_3omN1KgIuBjL-C4JePaE29i7u_0FbZ15wRoRxZB6D-7OZ1BEY?PARTNER=WRITER" width=145&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpjLMHRnq4KX-YrXeclOPsZtIlzKQ_DK09Wz3lSOp7P31OXCHgnVPNn3heHDais6Uc?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=228 alt="古戸の花祭り" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfrvETugi0TgJZ6Y627IfUAtw02A20dExlQkV54ySIMyU5ggzWjNliNTeS8OyKCKkHA?PARTNER=WRITER" width=343&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfo-9LoGzOox6AmX6baizI88p92zCC5agA6K9EzM1GRjVTo5vAty8uw6TML8j-6_xbY?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img height=229 alt="みのりの季節" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfppEbhYu8OLSKvTuSEKRCVXKprg3kTC_uI_y7XOd3FqdKMfNGuKWBn9SwVKQ9opobM?PARTNER=WRITER" width=184&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=5&gt;                      稲の伝来 &lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=5&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;    &lt;strong&gt;１　稲作の起源：&lt;/strong&gt; 
&lt;p&gt;　アジア栽培稲の発祥地は、インドの北部にあるアッサムと中国西南辺境にある雲南省の辺りだと見られている。太古からその高原や湿原では野生稲が多く分布されていた。長い歴史の中で、知恵の持つ原始人たちは、野生稲を人工栽培へ、そしてアッサムと雲南からアジア各地に伝播されてきた。 
&lt;p&gt;　稲は大きく二種類に、即ち粳米(うるち＝俗称インディカ）と糯米(もち＝俗称ジャポニカ）に分けられている。粳米の特長は、粒の形が細長く、粘性はない。糯米は丸い形をして、粘性がある。アッサムと雲南ではこの二種類の稲がともに混生してあったのだが、低湿地で育てやすいインディカと丘陵地に強いジャポニカが伝播する時、それぞれの立地に優れているかどうかによって、揚子江流域を経て最終的に中国に伝播されてきたのが、主にジャポニカの系統であった。このジャポニカの系統は後代日本まで伝来し、今日まで神社祭祀にしても民俗の祭りにも、日本の祭りで使われる主要な神饌の米はほとんど糯米であることから、古代日本のお祭りの面影を覗きみることができる。 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;    &lt;strong&gt;２　日本へ稲の伝来のルート： &lt;/strong&gt;
&lt;p&gt;　日本列島への稲の伝来経路について、三つの説がある。それは「海上の道」説、「朝鮮半島経由」説、「中国長江下流」説であろう。 
&lt;p&gt;  Ａ　「海上の道」説の否定： 
&lt;p&gt;　晩年の柳田國男最期の力作でもあった、彼の主張する海上の道での雄大な仮説は、民俗学界を魅了していた。然し長い間考古学界はそれを受け入れることを拒否していた。 
&lt;p&gt;　柳田は、日本民族の構造は人種の混淆を認め、大和民族は単一な民族ではなく、北からのと南からの渡来人に分かれていて混淆されてきたと。それについては稲や米の到来と定着をさらに考えるべきことだと言う。彼の仮説により、日本民族の祖先たちの一枝は南からいかなる経路をたどり、南の琉球列島に移り住んだか。それと同時に、海人たちは稲作技術を携えて、遥か南方からこの道を沿い北上し，琉球列島に伝え、その後さらに日本の九州に至ったか。彼はこの「華南→台湾→琉球→九州」のルートを、「海上の道」だと称している。地図上で見ると、これらの島々が確かにつながっていて、一つの連続した通路のように海上では広がっているが、それはあくまでも考古学上の有力なる証明がなく、一種の民俗学的仮説であり、沖縄本島および離島でそれだけの古い稲作遺跡は見つけることが出来ないからである。琉球列島の住民である海人たちは、長い間漁業を生業とし、島に稲作文化を健やかに育てる広い土地の環境がなかったからであろう。水の便でもそうかも知れない。 
&lt;p&gt;　然し、現在日本で栽培されている稲のほとんどは温帯ジャポニカであることと対照に、台湾の山岳部から南西諸島、そして九州までの一連の島々では、熱帯ジャポニカが広く分布している。「海上の道」は間違いなく存在していたのだろうか。恐らく船を操り大海原を駆け巡る海人たちが、熱帯ジャポニカの米を遠くから持ってきて口にしていただろうが、栽培する土壌がなく、稲作まで発展していなかったのではないかと考えられる。 
&lt;p&gt;  Ｂ　朝鮮半島経由説の疑問点： 
&lt;p&gt;　次に、中国大陸を渡り、朝鮮半島を経由し日本に伝来したという幾つかの説がある。 
&lt;p&gt;　第一ルーツ：長江中下流域から山東半島、遼東半島、朝鮮半島経由で日本に至る。 
&lt;p&gt;　第二ルーツ：長江下流域から山東半島を経て黄海を渡り、朝鮮半島経由で日本に至る。 
&lt;p&gt;　第三ルーツ：淮河下流域から黄海を渡り、朝鮮半島経由で日本に至る。 
&lt;p&gt;　これらの説は多くの研究者に支持されているが、考古学上ではそれぞれに問題点が存在している。 
&lt;p&gt;　まず、古代の山東半島と遼東半島に稲作より先に伝えられた農耕が粟（あわ）作であり、人々は粟を主食とした習慣があって、この地方は水稲が生長できる生態環境に大きく欠けていて、粟作中心でしかない農耕地帯であるといえる。次に、山東半島の大連市にある大嘴子遺跡から、今から３０００年以前の炭化粳米が出土された。然し１９９２年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における家瓦遺跡から大量に発見された。今から４７２１年（＋－５０）年前と推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、今から５０２０年前のものだと修正がなされた。これは山東半島から朝鮮半島へ稲が伝わってきた説と年代的にまったく逆になろう。勿論、山東半島や淮河下流域から数少ない栽培稲の種が出土されてはいるが、まだ考古学的な資料に乏しく、山東半島に３０００年前に稲作農耕技術が存在していたことだけで、「山東半島→朝鮮半島→日本」という稲の伝来の説を充分に証明することは出来ていない。 
&lt;p&gt;  Ｃ　中国長江下流域説の可能性： 
&lt;p&gt;　最後に、最も可能性のあるのは、長江下流域と杭州湾地域の浙江省から海を渡って、直接に日本に至るルートである。 
&lt;p&gt;  ①　長江下流地方、ここは中国では俗称で「江南水郷」と言われていた。すなわち、水に恵まれ稲と魚の故郷という意味である。この地方は人々が古くから稲を主食とし、中国でも最も有名な稲作農耕地帯であった。新石器時代から稲作遺跡が密集し、近年でもその多くが発見がなされている。例えば上海市青浦県にある崧沢と馬橋、江蘇省無錫市にある仙蠡墩、錫山、呉県の草鞋山、常州圩墩、越城、呉江龍南、と枚挙にいとまがない。その地名の中の「呉」や「越」などは、古代地名「呉越地方」の名残で、この地方は古くから日本との交易が頻繁であった。その遺跡たちの中で最も名高いのは河姆渡遺跡であり、近年における河姆渡遺跡の研究により、黄河文明よりも遙かに古い時代に長江文明が存在していたことが明らかになった。稲作は中国の東北地方を通らず、長江下流域から直接日本に伝ってきたことが容易に考えられる。 
&lt;p&gt;  ②　長江下流域から直接に海を渡り日本に渡来する道は、ただ地理的から見れば、南の島々の繋がる海上の道と朝鮮半島からの近距離の渡海より、距離が遥かに長い。が、江浙地帯は東シナ海に臨み、古くから漁業が盛んで、大陸系で馬を駆使出来る東北の人々と対照にし、越人たちは舟を操る巧妙さに高く、漁業を始め、海路の貿易まで、海上活動は大変活発であった。如かして越人たちは、日本との間でさまざまな交易があったことは容易に想像しうる。それを溯り、杭州湾の寧波市にある慈湖遺跡から出土された木製櫂を見ると、先秦時代に長江下流、杭州湾に既に水上交通が相当普及しており、海上にも進出していたことが充分に分かってくる。さらに、造船や航海の技術はまだ充分に発達してなかった当時、海流や季節風などの自然的要素を味方につけ、先秦の人たちの航海技術は、現代人の想像を遥かに超えているかもしれない。河姆渡人たちが舟を乗り、海流に流されつつ、稲を直接日本に持ってきたことは充分に考えられる。 
&lt;p&gt;  ③　以上は考古学から検証したが、次にＤＮＡ考古学からまた幾つかの理由を挙げよう。 
&lt;p&gt;　中国大陸、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種は主に２５０種がある。その中で、遺伝子の変形版が８つもあり、それぞれをa～hまでの字を当てることにする。遺伝子だけを見れば、面白い現象が分かる。中国と朝鮮半島にこれら８つの変形版がほとんど存在しているのに対し、日本に栽培される品種の多くはaか bかに限られている、これは中国と朝鮮から持ち運んできた稲の種は極僅かだからであろうか。然し、朝鮮半島にはbがない、中国にはaがないことにも関わらず、日本にはaもbもある。 
&lt;p&gt;　前述のように、朝鮮半島経由で稲が日本に伝来したのはまだ大いに疑問が存在しているけれど、いま日本にあるa遺伝子を持つ米は、朝鮮在来の品種の子孫であると言えがたい、b遺伝子を持つ米は、中国から伝ってきたものであると考えてもいいであろう。 
&lt;p&gt;　つまり、日本への稲の伝来のルーツは、一つだけではなく、様々な要因を複合総合して、複数のルーツを経由しながら稲はやがて日本の国に伝来したものと考えられるのである。 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;    &lt;strong&gt;３　日本列島での稲の東漸 &lt;/strong&gt;
&lt;p&gt;　稲はいつ日本に伝来したか、長い間、弥生時代説が通説であった。然し最近の考古学発掘調査によれば、福岡県板付遺跡に、縄文晩期には既に水田遺構があったことが窺える。弥生早期になると、井堰、水路、水口などの高度な稲作技術が形成されていた。それに伴って同時期に形成したのが初期の環濠集落である。稲作が一挙に日本に伝来し、急速に日本に定着し始めることとなったのだろう。水稲農耕化の日本列島への東漸に伴い、弥生文化の範囲も拡大されてきたのだ。稲作は九州を始め、瀬戸内海を超え、近畿にも農耕集落が現れるようになった。そして第二次の拡大は、中部を渡り、東日本に至り、その時は既に本格的で成熟した農耕文化が形成されていただろう。弥生中期になると、東北地方に巨大な農耕集落が出現したのは明白な事実である。稲作は東漸しながら、日本人の生活を大きく変えてきたといえよう。 
&lt;p&gt;　このような急進的な文明の発展と進化はほかの国では類例が見られないぐらいで、稲作が日本に伝来したからこそ、日本人の生産力が急速に高まり、縄文から弥生に飛躍してきたと言っても過言ではないであろう。そして日本列島で農業共同体が形成し、弥生人たちが集団生活をし始めることになった。日本文化の多くの要素は、この稲作による集団生活という原点から発生してきたものであろうことが容易に察せられる。様々な文化の伝播に酷似している。 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;参考資料：『日本のコメはどこから来たのか』渡部忠世/１９９０年ｐｈｐ出版社 
&lt;p&gt;            ；『新嘗の研究５』『DNA考古学といね』『稲作農耕東伝経路の研究』 
&lt;p&gt;  &lt;img src="http://c.services.spaces.live.com/CollectionWebService/c.gif?cid=7831846612080327289&amp;page=RSS%3a+%e7%a8%b2%e3%81%ae%e4%bc%9d%e6%9d%a5&amp;referrer=" width="1px" height="1px" border="0" alt=""&gt;&lt;img style="position:absolute" alt="" width="0px" height="0px" src="http://c.live.com/c.gif?NC=31263&amp;amp;NA=1149&amp;amp;PI=73329&amp;amp;RF=&amp;amp;DI=3919&amp;amp;PS=85545&amp;amp;TP=sakura-nokishita.spaces.live.com&amp;amp;GT1=sakura-nokishita"&gt;</description><comments>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1873.entry#comment</comments><guid isPermaLink="true">http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1873.entry</guid><pubDate>Wed, 19 Mar 2008 06:36:37 GMT</pubDate><slash:comments>6</slash:comments><msn:type>blogentry</msn:type><live:type>blogentry</live:type><live:typelabel>Blog entry</live:typelabel><wfw:commentRss>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1873/comments/feed.rss</wfw:commentRss><wfw:comment>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1873.entry#comment</wfw:comment><dcterms:modified>2008-03-19T13:55:19Z</dcterms:modified></item><item><title>伊勢の神宮神田における農耕儀礼</title><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1880.entry</link><description>&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  &lt;a href="http://blufiles.storage.live.com/y1pJ8agrUaWTfp0IPihJOdA1g9WFslA8WF6XpFFm7AvB4DzLS6htO3iZxKCGLSd6yirm8MmqexLEQI" target="_blank"&gt;&lt;img style="width:303px;height:208px" height=200 alt="ご神饌" src="http://blufiles.storage.live.com/y1pJ8agrUaWTfp0IPihJOdA1g9WFslA8WF6XpFFm7AvB4DzLS6htO3iZxKCGLSd6yirm8MmqexLEQI" width=300&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfqd7kVudcM1ksQJiP7QGPj2PDGE9x0MC_V9S0dGDJ-wbbJCjWlkBZIq4OTKJ1BOe5Y?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img style="width:158px;height:208px" height=204 alt="伊勢" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpQPYG65vUQ-t_eL7xXpUiKAcV5TlNTaIwfQLz-XwykJkWS3UFW-JyJD6DdQKHT57s?PARTNER=WRITER" width=153&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfpX0ggbGVkFYtLM55J-6bG57mNiML0wI48_GWUBv2or3UtqysjqDURER5yIlO66M6k?PARTNER=WRITER"&gt;&lt;img style="width:297px;height:208px" height=204 alt="伊勢の神宮" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pJ8agrUaWTfr66NSwsswvqpdvWiw0M9MwMQNaMZU3FdraB6oGZMvPEnt-Gu06RaZ8_3Bf3yT8H40?PARTNER=WRITER" width=294&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;                             &lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=5&gt;伊勢の神宮神田における農耕儀礼 &lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;  神宮神田とは、内宮には楠部町にある家田神田（抜穂田ともいう）・田辺神田・荒祭宮料田が三節祭における由貴大御饌の御料田とされ、外宮には宮崎神田（御常供田ともいう）が日別朝夕大御饌の御料田に充てられてきた。そのほか、内宮別宮伊雑宮にも御料田がある。 
&lt;p&gt;　その中で特に由緒が古く、民間の稲作儀礼と共通する祭祀基盤性を持つのが楠部町の内宮神田である。楠部は五十鈴川沿いに位置し、地元の農民が古くから五十鈴川の水を灌漑用水とし稲作をしてきた。伝承によりこの神田の由来は、垂仁朝に倭姫命が大宮処を求めて巡幸した際、各地を経るごとに、地元の国造と県主が神田を献上したものとされている。楠部神田は、倭姫命が宇治郷に行った時、「大神之御刀代田」として献上されたとも伝えられている。 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;　　　　①　鍬山祭と御田種蒔下始：&lt;/strong&gt; 
&lt;p&gt;　神宮神田における一連の稲作儀礼の中で最も早く行われるのは、毎年２月の鍬山祭と御田種蒔下始である。その前半の鍬山祭は、農村のおんだ祭りと同じで、本当の田植えではなく、田植えの模倣をし、初春の豊年予祝行事に当る。 
&lt;p&gt;　『皇大神宮儀式帳』により、二月初子日、禰宜、内人等が山向物忌子を率いて、忌鍬を作るため、湯鍬山に登る。忌物を供えて、山口の神を祭り、櫟(くぬき)木のもとに到って、木本神を祭る。山向物忌子、忌斧を持って、櫟(くぬき)木を伐り始め、後に人夫などに伐らしめる。湯鍬を作り、禰宜、内人等は真佐岐蔓を懸けてから、湯鍬山を下りる。 
&lt;p&gt;　その前半の鍬山祭は、神聖な山から神聖な木を切り、その木に宿る神を神聖な田圃まで移す、このような木こり行事は神宮だけの稲作儀礼ではなく、ごく普通の農家のお田植え祭にも登場している。古くから日本人は早春の頃に山にて花見をし、辛夷や櫻などの花が咲けば、このことから田植の作業を始めても良いとの目印になったと見られ、山から稲霊の宿る花の咲いた枝を持ち帰り、田圃に挿し、一年の豊作を祈り、田植を始める。近代の村々にもこの習俗が続けられてきた。年の暮れや新年に山から木を迎えに行って、正月や小正月の行事にねんごろに祀らい奉って、またこれを苗代や田圃の畦道に飾り、田植のときに田圃の水口に飾る習慣も多く観られる。 
&lt;p&gt;　もう一つの注目すべき点は、同じ伊勢神宮で行われる祭り――御遷宮の造営にあたり、最初に執り行われる祭儀は山口祭である。神宮の造営する用材を伐採する御杣山の山口に座す山口神を祀り、木を切り始める。その後の木本祭は、伊勢神宮の信仰で最も重視され、正宮の床下にある心御柱の御料木を切る。その木を山から運ばれ、新社殿を造営するとき、まず敷地に神さまの宿る心御柱を立ててから、社殿の周りを建てる。また遷宮の後、旧社殿が解体されても心御柱は神さまが去った形見としてそのまま敷地に保存され、次回の遷宮のときに再びここで新しい社殿を立つ目印になる。心御柱には神の存在が信じられているのである。建築儀礼である神宮遷宮も、稲作儀礼である鍬山祭も、山から神を移すという共通点がある。(鹿児島の民間信仰にあるタノカンサーと同様であろうか) 名高い御遷宮はけっして民衆と離れた儀式ではなく、古来日本人の信仰の色濃く染められているものである。 
&lt;p&gt;　また、その後半の御田種蒔下始は、日本田植の原初形式――直播方式であり、現在のような５月の田植方式は、１５世紀頃に変わってきたものであろう。神宮の古記録には、その田植の古態、即ち御田種蒔下始のみ記述され、現在の通常の田植は見当たらなかった。 
&lt;p&gt;　『皇大神宮儀式帳』により、酒作物忌父、忌鍬を持って御刀代田を耕し、忌種を下ろし始めるとある。時に田耕歌、田舞をなす。諸神田および百姓田、耕して種下しを始める。また、「あな楽し　今日の楽しさ　古へも　かくや有りけむ　今日の楽しさ」という御田歌がある。 
&lt;p&gt;　現在、毎年４月２日に行われる神田下種祭は、明治５年に古式の儀は廃止された後、昭和八年に復興された新祭式のものである。古儀の鍬山神事の伝統を引き継いだ上で、神田祭場にて神社祭式により献饌の後、黄狩衣の作長と白張姿の作丁により実際に神田に耕作と播種の作業をしている様子を再現している。田歌に「天鍬や真佐岐の蔓笠にきて御田うちまつる春の宮人」という歌があるようにである。 
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;　　　　②　お田植え：&lt;/strong&gt; 
&lt;p&gt;　早春の予祝神事の次、五月に入ると、内宮は家田神田、外宮は宮崎神田にて本式の田植が行われる。前にも述べたが、田植は平安以前の神宮古記録では記述されていなかった。その原因の一つは前述した直播方式であったが、然し一方では、田植の際に奉納される五穀豊穣を祈る為の田楽は、日本において古くからある習慣・習俗であり、また神宮も民間と同じように、２月鍬山祭の後、５月に田植初めを迎えるはずである。神宮古記録に書かれなかったもう一つ重要な原因は、当時田植は神宮禰宜の職務に属せず、郡司専当であった。内宮田植の初見は応永十年（１４０３年）の『神宮日記』であり、中世を通し、田植が次第に内宮に属した神事になってきたのはこの時期の前後ではないだろうか。 
&lt;p&gt;　田舞の芸態について、『皇大神宮年中行事当時勤行次第』によると、五月五日（中略）、宮政所、苗三株を植え始め、農夫農女が競って御田を植え進み、その遅速により作付けの豊凶を占う。田中の森を植え残して苗を植えた後、能人四人、舞人十人が二列に分かれ、福神の刺翳を立てて験とする。（中略）職掌人、歌舞しつつ門内に入来して、鼓吹、歌舞（保古流）するとある。 
&lt;p&gt;　その「福神の刺翳を立てて験とする」の中の福神は即ち御歳神で、内宮の田植神事は、鍬山から御歳木を伐り、守護神として神田に迎えることに続いて、田の神の信仰を重視していることが所見せられる。 
&lt;p&gt;　外宮の田植について、近世になるほど書物に詳しく記述されている。 
&lt;p&gt;　『豊受皇太神宮年中行事今式』により、 
&lt;p&gt;　　　Ⅰ　前儀： 
&lt;p&gt;　御田山に幄屋を構える。前日に、一禰宜里第にて家司より、神歌を習い、当日未明にて御田に椎柴を伐り、一禰宜里第にて御田扇、赤飯を賜る。小試、荷用内人、前日に御政印御倉より棒扇篋(はこ)くを一禰宜里第に運び、振棒、振扇、神楽役人も同所に集いともに酒餅を賜る。御田役人の鼓吹につれて、振棒、振扇が歌舞。後に振棒、振扇のみ盛饌に預かる。一禰宜、末広扇一握、御田扇二握を各禰宜斎館に賜る。 
&lt;p&gt;　　　Ⅱ　田植： 
&lt;p&gt;　神楽役人は風宮側に集い、家司代、加伊豆留、荷用内人、小内人は庁舎にて飲酒。共に御田に先行する。子等、物忌父等、風宮前、闇谷口、井谷上を経て（新嘗会之田）に至り、田畔の椎木に踞える。その西畔に神楽役人も参集する。禰宜、権官、例所より木柴垣を経て本宮に伏拝、別宮遥拝。二鳥居より一禰宜、十禰宜が騎乗、把笏して先行。二禰宜轅(ながえ)、三禰宜肩輿、三禰宜以下騎乗して従行。闇谷口より井谷上を経て御田山麓にて下乗。山を登りて幄屋に着座。小内人、供具を田畔に据え、子等、物忌父、家司代、加伊豆留、荷用内人、神楽役人等に酒飯を勧める。大物忌父一臈が苗前にて祓を修し、小内人が祓串を執(と)りて、苗、物忌父以下を祓い清める。 
&lt;p&gt;　神楽役人、御田に下り立ち鼓吹、歌謡をなす。その第三曲に合わせて子等、物忌父等が起つ。一長、時に苗一株を物忌末座に授け、これを子等に転伝する。子等、市女笠(いちめがさ)を着けて、其の笛を御田に投げること三度。物忌父等、御田に蹲踞拝。 
&lt;p&gt;　神楽役人は丸山に往き、子等、物忌父、家司代、加伊豆留、荷用内人は先に帰る。大物忌父一臈、山を登り禰宜幄屋に着座。神楽役人の奏する笛の初音を聞くや、一禰宜に礼して帰る。井谷上に待つ物忌等と共に風宮前を経て、遥拝所より本宮を拝して帰館。 
&lt;p&gt;　　　Ⅲ　後儀 
&lt;p&gt;　　振棒、振扇、装束、化粧を整えて、一禰宜里第にて朝食を摂り、丸山に向かう。一禰宜家人も棒扇篋から棒扇を取り出して丸山に往く。神楽役人、田沼に下りて鼓吹、歌舞。禰宜、権官、一禰宜斎館にて盛饌を賜る。神楽役人、禰宜帰館につれて御田鳥居前、闇谷口、一鳥居、北御門口、一禰宜里第へと鼓吹、歌舞し、畢りて退出。振棒、振扇、食事、扇二握、青蛛を賜り、祝言を申して退出。 
&lt;p&gt;　今日になると、毎年五月十七日に行われる神宮神田（内宮）田植は、明治５年一度廃止され、大正十二年復興されたものである。神宮神職が田の神を祀った後、笛、ささら、鼓などの田楽を奉納しながら、早乙女が早苗を植え付ける。その後、「団扇合せ」や「行司取り」を行う。田植が終った後、大土御祖神社の境内でほこり、舟漕、とう舞（鼓で米俵の真似をし、豊作を祈る）を奉納する。神宮の神田の田植神事でも、民間の田圃と同じく、賑やかで神人和楽な田楽を奉納し、稲の祭り独特にして素朴なる一面は大いな魅力で満ちるのである。 
&lt;p&gt;　また、内宮別宮伊雑宮の神田に行われる御田植は名高いものであり、県無形文化財に指定され、後の文の中で詳しく紹介する。 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;　　　　③　抜穂祭&lt;/strong&gt; 
&lt;p&gt;　神宮では、九月始め、成熟した稲を神嘗祭に供奉するために収穫する神事を抜穂祭と称する。抜穂とは、日本古来の収穫方法であり、晩稲を収穫するときの刈りとは違い、早稲だけ稲穂を一本一本抜くという独特の方式である。 
&lt;p&gt;　『皇太神宮年中行事』の寛正加注により、「禰宜穂抜三穂也、其後宇治郷大小刀禰、祝部等奉抜之、一拳三伏宛十八也」とある。 
&lt;p&gt;　今日に行われる抜穂祭は、明治六年の改暦の際に、神嘗祭は旧暦９月から新暦９月になったため、新穀は未熟であったことで困っていたものだが、近年農業の発展により、新暦９月に早稲をも収穫することが可能になり、現在は毎年９月６日に行われている。神田祭場で神祭の後、黄狩衣姿の作長が忌鎌を持ち、抜穂二束を抜く。その後、稲穂を乾燥し、内宮は御稲御倉、外宮は忌火屋殿に納められる。神嘗祭と月並み祭の際に、御料米として献上されるものである。 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt;　　　　参考 
&lt;p&gt;　　『新嘗の研究　５』　にいなめ研究会　２００３年　 
&lt;p&gt;　　『伊勢神宮の稲作儀礼』　小島瓔禮 
&lt;p&gt;　　『伊勢神宮の神田三儀』　中西正幸 
&lt;p&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.live.com/y1pJ8agrUaWTfrEeOzkgF0r4sh5cdO4WJ1_Hwvl7xBW-wbkLqAaNee2s-b5qd79WUND1uMwlYbuQIA" target="_blank"&gt;&lt;img style="width:490px;height:406px" height=200 alt="注連縄" src="http://blufiles.storage.live.com/y1pJ8agrUaWTfrEeOzkgF0r4sh5cdO4WJ1_Hwvl7xBW-wbkLqAaNee2s-b5qd79WUND1uMwlYbuQIA" width=300&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p align=center&gt; &lt;img src="http://c.services.spaces.live.com/CollectionWebService/c.gif?cid=7831846612080327289&amp;page=RSS%3a+%e4%bc%8a%e5%8b%a2%e3%81%ae%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e7%a5%9e%e7%94%b0%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%81%91%e3%82%8b%e8%be%b2%e8%80%95%e5%84%80%e7%a4%bc&amp;referrer=" width="1px" height="1px" border="0" alt=""&gt;&lt;img style="position:absolute" alt="" width="0px" height="0px" src="http://c.live.com/c.gif?NC=31263&amp;amp;NA=1149&amp;amp;PI=73329&amp;amp;RF=&amp;amp;DI=3919&amp;amp;PS=85545&amp;amp;TP=sakura-nokishita.spaces.live.com&amp;amp;GT1=sakura-nokishita"&gt;</description><comments>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1880.entry#comment</comments><guid isPermaLink="true">http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1880.entry</guid><pubDate>Sat, 15 Mar 2008 05:01:33 GMT</pubDate><slash:comments>0</slash:comments><msn:type>blogentry</msn:type><live:type>blogentry</live:type><live:typelabel>Blog entry</live:typelabel><wfw:commentRss>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1880/comments/feed.rss</wfw:commentRss><wfw:comment>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1880.entry#comment</wfw:comment><dcterms:modified>2008-03-15T05:05:54Z</dcterms:modified></item><item><title>津和野の乙女峠</title><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!802.entry</link><description>&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pkOu-d_iDDdDZ4lcCeXC5mrhFidjL0E0xnBQix-ao_oCU4CZdG9jgGclzQneJcbH8W8UiCbU8xWM"&gt;&lt;img height=480 alt="乙女峠のマリア聖堂" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pkOu-d_iDDdBjJSY34CCcggxdKKeyO_-n13gY8oCKuZ155mJZMD1joN6B7mIGOaHyNmyLRr1q_HI" width=640&gt;&lt;/a&gt; 
&lt;p&gt;  
&lt;p&gt; 
&lt;p&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=4&gt;津和野の乙女峠 &lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;そう言えば　津和野の乙女峠にあるマリア聖堂はどうしたでしょうね &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;主人と二人で訪れた時　大勢の若い女性が来ていて　野外ミサをやっていた &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;多分五月の連休のことではなかったか　津和野駅の裏手にある大定院と光明院の二つの寺の間から &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;約１００メートルは登っただろうか　登った先の草生す丘に　十字架を抱いた木造建ての小さなカトリック教会があった &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;聖母マリア様と殉教者三十六名の為　昭和二十六年に　津和野カトリック教会のパウロ・ネーベル神父によって建てられたと聞く &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;ところがである　そこで主人が耳にしたお話を聞き　主人は止め処もなく涙をこぼし　私も思わず貰い泣きをしてしまったあの思い出 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;お話はこうだ　何とこの殉教者は明治になってからのお話で　長崎の浦上天主堂の信者が　 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;明治元年から六年に亘って　クリスチャン１５３名を津和野に連れて来られ　改宗を迫る迫害を受けたと言う　 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;その中の何人か神の慈悲と神の愛を頑なに信じた者達が殉教して果てたと　多くは女性であり農婦であった　明治の時代にである　 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;欧米列強の各国からクリスチャン迫害を諌められ　弾圧を止めたのだが　そんな背景にこうした悲劇が隠されていたのだ &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;教会の中には　聖母マリア様がいらっしゃっていて　哀しみを織り込んだかのような淡いステンドグラスの陽光が陽炎のように入っていた &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;  &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.msn.com/y1pkOu-d_iDDdBpFsWjV-2HM__cRKxj-opzvBtOk3q1or-ZKyromYriIFwwat9eCd9pC8FYXfrEa8c"&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;&lt;img height=480 alt="乙女峠のマリア聖堂内部" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pkOu-d_iDDdCyyMoem7FLgHT4wbuRfSguqW2Ur8i6EuA-dXRhGIjHSwXVXriiEMeUpBuk0Rb-nCo" width=360&gt;&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt; &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;  &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;弥栄さまの鷺舞は疫病でやられた多くの領民の為であり　乙女峠のマリア聖堂で追悼される方々は良き農婦の為であった &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;どちらとも限りなく善良なる日本人に変わりなく　宗派とか主義には全くの隔たりはないように思えてならない &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;img src="http://c.services.spaces.live.com/CollectionWebService/c.gif?cid=7831846612080327289&amp;page=RSS%3a+%e6%b4%a5%e5%92%8c%e9%87%8e%e3%81%ae%e4%b9%99%e5%a5%b3%e5%b3%a0&amp;referrer=" width="1px" height="1px" border="0" alt=""&gt;&lt;img style="position:absolute" alt="" width="0px" height="0px" src="http://c.live.com/c.gif?NC=31263&amp;amp;NA=1149&amp;amp;PI=73329&amp;amp;RF=&amp;amp;DI=3919&amp;amp;PS=85545&amp;amp;TP=sakura-nokishita.spaces.live.com&amp;amp;GT1=sakura-nokishita"&gt;</description><comments>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!802.entry#comment</comments><guid isPermaLink="true">http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!802.entry</guid><pubDate>Thu, 26 Jul 2007 04:52:08 GMT</pubDate><slash:comments>0</slash:comments><msn:type>blogentry</msn:type><live:type>blogentry</live:type><live:typelabel>Blog entry</live:typelabel><wfw:commentRss>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!802/comments/feed.rss</wfw:commentRss><wfw:comment>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!802.entry#comment</wfw:comment><dcterms:modified>2007-07-26T04:52:08Z</dcterms:modified></item><item><title>『和』ということ　Ⅱ</title><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!752.entry</link><description>&lt;p align=center&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　   
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt; &lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=4&gt;『和』ということ　Ⅱ&lt;/font&gt; &lt;/strong&gt;
&lt;p&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;　質素にして、礼儀正しく、人間味溢れ、贅沢を敵とし、神人あい和し、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;深い信仰心に満ち、思い遣りがある日本の美徳を、小泉八雲は愛してやまなかった。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;彼は天涯孤独な身の上で、アイルランドに生まれながら、ロンドン～ニューヨークへと放浪を続けた結果&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;日本にやって来て、松江でセツを得て、大人数の家族を養った。家族の愛に飢えていたのかも知れない。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;家族が諍いを起こすと楽しんで見て、隣家に入った押し込み強盗と隣家のお婆さんの遣り取りも、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;実に人間味溢れると言って楽しんだ。ハレン（Ｌａｆｃａｄｉｏ　Ｈｅａｎ＝小泉八雲）は、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;左の目が瞑れていた片目であったことも余りよく知られていない。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;松江から熊本へ、更に横浜へ移動し、横浜時代は記者として活躍していたが、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;東京大学に招かれて、東大で教鞭を取り、多くの文学者を輩出させた。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;その時も妻セツの身内を大勢連れて歩いた。東京市ヶ谷に住んだが、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;坪内逍遥との関係で、最期早稲田で教鞭を取り、市ヶ谷が終焉の地となった。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;子供の戸籍のことで悩んだ挙句、日本人として生きることを決意をし、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;小泉八雲と名乗ったが、夢半ばにして果てている。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;遺骨は松江に葬られ、日本人以上の日本人として生きたのではなかっただろうか。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;時代は日清戦争から日露戦争へ、更に日本は軍国主義へ大きく傾斜して行く時代であった。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;和の良さと列強に並ぼうとした日本国家との狭間で、八雲は辛かっただろうと思えてならない。 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;&lt;/font&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;　同様な時期、アメリカ人学者・フェノロサと東洋美術の先駆者・岡倉天心は大和路の寺々をコツコツ調査していた。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;廃仏棄却という比類なき大打撃を受けた佛教界の実態調査と美術群の発掘であった。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;その結果国宝第一号となったのは、京都・太秦の広隆寺・弥勒菩薩であったのは言うまでもない。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;二人は次々に日本の美術を発掘して歩き、所謂奈良学と呼ばれる先駆者達に深い影響を与え&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;精魂込めて、古都の美を再発見していった。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;その後、和辻哲郎や写真家では土門拳や入江泰助達は先駆者の意図を発展させ、定着に至っている。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;但しこれらの和の美発見は飽くまでも、世の中すべてが欧入和廃の気風の中であったので、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;美の発見とは言え、一種の壮絶な闘いであったはずである。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;政府が躍起となって海外進出し、国威発揚を希った時である。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;戦わずして、彼等の勝利はあり得なかったのである。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;つまり今現在でも『和』とは闘いの渦中にあって久しいわけであるのだ。 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;&lt;/font&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;　一方柳田國男を初めとし、民間の習慣・習俗を研究する民俗学の台頭があった。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;折口信夫が後からついて往き、その後民俗芸能に一心不乱に研究を続けた本田安次と言う稀有の民俗学者を&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;生み出した。宮本常一や和歌森太郎、更に『花祭り』の早川孝太郎もいた。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;長足の進歩で、古来から守られ受け継がれて来たものに日の目を当てた。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;文化の頂点に立つのではなく、民間の底辺の文化を丹念に調べ上げ、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;本田安次は実に日本各地を４万箇所以上生涯廻り切り、長大な資料群を遺した。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;現在民俗学は資料収集が一定の成果を挙げ、後学の研究を待つ時期にあるとも言える。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;更にこれとても次々に喪失して行く中で、今よとばかり必死に闘って行かなければならない途上にある。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;我々が簡単に『和』などと語れない辛酸を舐めたのであって、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;現在でも『和』を追及することは、非情な覚悟と断固たる信念に基づいていなければならぬ。 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;&lt;/font&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;　柳宗悦を筆頭に起きた『日本民芸運動』も忘れてはならぬ。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;棟方志功・浜田庄司・河合寛二郎・芹沢銈介など、キラ星の如く輝やいた人達も忘れられぬ。 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;&lt;/font&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;　幸いにも　これら先哲の成果の上に我々がいる。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;私達は今ここで二千年の歴史に改めて着目し、更なる闘いを挑んで行かなければならない。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;急激な変化と変貌を遂げる世界の後にばかり付いて行く必要と余裕は全くないのだ。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;冷静に着実に更なる勉強を続けて行かなければならない。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;然しここに大きな味方がいることも併せて明記しておきたい。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;江戸の国学者・本居宣長の存在である。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;近代国家で辛酸を舐めることを余儀なくされた分野に、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;きっと大きな夢と自負心を与えてくれるだろうと思える。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;１７７６年７月４日に独立をした歴史の浅いアメリカとは大いに違っているわけで、&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;歴史のない国に後追い心中する必要は何処にもないはずであろう。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;日本人よもっと自信と誇りを持って、死にモノ狂いで『和』の検証と発展と&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;そこから来る様々な創造に手を貸そうではないか。&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝" size=3&gt;世界中の通じる立派なことは　まだまだ埋まっていると想像して戴きたいのである。 &lt;/font&gt;
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=left&gt;&lt;font color="#0070c0"&gt;伊勢・いすヾ茶屋の水菓子&lt;/font&gt; &lt;div&gt;&lt;table cellspacing="0" border="0"&gt;&lt;tr height="8"&gt;&lt;td&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;p&gt;&lt;a href="http://blufiles.storage.live.com&amp;#47;y1pJ8agrUaWTfpo__b0UfNtEZfGwjM9ueV2ooZQEaG-X4JunVQRcfDYvZqJcxLDo6mni8cMPCstRVA"&gt;&lt;img src="http://storage.live.com&amp;#47;items&amp;#47;6CB04EFFB064FA79&amp;#33;786&amp;#58;thumbnail" border="0"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;td width="15"&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;&lt;/div&gt;&lt;img src="http://c.services.spaces.live.com/CollectionWebService/c.gif?cid=7831846612080327289&amp;page=RSS%3a+%e3%80%8e%e5%92%8c%e3%80%8f%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8%e3%80%80%e2%85%a1&amp;referrer=" width="1px" height="1px" border="0" alt=""&gt;&lt;img style="position:absolute" alt="" width="0px" height="0px" src="http://c.live.com/c.gif?NC=31263&amp;amp;NA=1149&amp;amp;PI=73329&amp;amp;RF=&amp;amp;DI=3919&amp;amp;PS=85545&amp;amp;TP=sakura-nokishita.spaces.live.com&amp;amp;GT1=sakura-nokishita"&gt;</description><comments>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!752.entry#comment</comments><guid isPermaLink="true">http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!752.entry</guid><pubDate>Sat, 21 Jul 2007 14:08:29 GMT</pubDate><slash:comments>0</slash:comments><msn:type>blogentry</msn:type><live:type>blogentry</live:type><live:typelabel>Blog entry</live:typelabel><wfw:commentRss>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!752/comments/feed.rss</wfw:commentRss><wfw:comment>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!752.entry#comment</wfw:comment><dcterms:modified>2007-07-27T13:08:12Z</dcterms:modified></item><item><title>『和』ということ</title><link>http://sakura-nokishita.spaces.live.com/Blog/cns!6CB04EFFB064FA79!739.entry</link><description>&lt;p align=center&gt;&lt;img style="left:0px;visibility:visible;width:622px;top:0px;height:378px" alt="" src="http://blufiles.storage.msn.com/y1pkOu-d_iDDdAcooavDvEdJfUxs-EwhhrgVvVl8fPOx3P-GKCluuLAubI2dbdt4cmJ_eED8I8QOAE"&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;font color="#0000ff"&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　雨の長楽寺&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝" size=5&gt;『和』ということ &lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝"&gt;ラフカデイオ・ハーン（小泉八雲）が日本にやって来た頃　日本政府は富国強兵策に躍起となり&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝"&gt;小泉八雲がこよなく愛した日本人の美徳が瓦礫のように崩れて行く時代で　本人はどんなに悲痛に生きたことであったろう&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝"&gt;折りしも時　日清戦争に突入したばかりの時期であった　当初松江の英語教師として赴任し　セツと結婚　セツの大勢の身内を養い&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝"&gt;少しでも暖かい処へと　愛する松江を離れ　熊本へ　初め熊本には絶望したのだが　日本(熊本）の良さがまだ気風として残っていた&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝"&gt;その頃『極東の将来』と題して　下記のような講演を行っている&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝"&gt;　&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝"&gt;私が『和』と言うことを考える際に　最も重要な思考の機軸に据えているもので&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝"&gt;その全文を掲載し　多くの西洋文化線上にある『和』に対する安易な流行を　厳に諌めたいものである&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;和してこそ和であり　慎み深くして和であると&lt;/font&gt; 
&lt;p align=center&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝"&gt;&lt;/font&gt;  
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;&lt;font face="ＭＳ Ｐ明朝, ＭＳ 明朝" size=3&gt;『極東の将来』&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;　　　　　 
&lt;p align=center&gt;&lt;strong&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以下&lt;/strong&gt;　&lt;strong&gt;講演者　ラフカディオ・ハーン（小泉八雲）の訳文&lt;/strong&gt; 
&lt;p align=center&gt;  
&lt;p align=left&gt;  現在との関連において将来を考えることは、文明にとってきわめて必要なことである。文明国のごく普通の労働者でさえ、稼いだ金を、片っ端から浪費するようなことはしないし、もし思慮深い人ならその大部分を将来のために貯えておく。これなどは最もありふれた備えである。政治家ならもっと次元の高い展望をする。彼がある法律案を提出したり、または反対したりする時、「自分の死後百年経ったら、この法律はどんな結果を生むだろうか」と考える。しかし哲学者はさらに遥か先の見通しを立て、「現在の状況の結果は、千年後どのようになっているだろうか」と問う。しかも彼はただその一国に限らず、全人類について考える。 
&lt;p&gt;　東洋の将来について諸君に語るに際し、私は西洋の哲学者の立場から語りたい。日本だけでなく、また極東だけでなく、全人類について語りたい。 
&lt;p&gt;　私は先ず最初に、極東の将来は西洋の動きに部分的にではあるが、左右されると申し上げねばならない。少なくとも次のことは確かである。極東で起こる軍事・政治・経済・文化等での大変動は西洋の影響によって引き起こされるということである。この西洋の極東への影響は侵略的であり、避けられない。それは幾世代にわたって止むことはないであろう。将来の東洋について考える前に、先ず西洋の現状を考察してみよう。 
&lt;p&gt;　19世紀西洋における産業文明の進歩と関連した最も著しい事実は、西洋諸国の爆発的な人口増加であった。1801年にはイングランド、いやグレ－ト・ブリテンの人口は1634万5646人であった。1892年にはその人口が3778万7953人にもなった。もっとさかのぼると、さらに驚くべき数字になる。エリザベス女王[在位1558～1603]治世の時代には、イングランドとウエ－ルズの人口は560万517人であった。ビクトリア女王[在位1837～1901]の時代には2900万1018人である（1892年）。しかし1892年の数字はカナダ、アメリカ、南米、オ－ストラリア、ニュ－ジ－ランド、及び南アフリカにいる数百万のイギリス人を含んでいないし、その外五十ヶ所のイギリス人についてはいうまでもない。ギボン[英1737～1794] が歴史書を書いた時代のドイツの人口は約2200万人であったが、今では4950万である。フランスの人口は2000万人ばかりであったが、1893年には3821万8903人となった。イタリアの人口はわずかに1000万人ほどであったが、現在では3000万人を超している。スペインの人口は800万人位であったが、今では1750万人である。ロシア（ヨーロッパのロシアだけ）の人口は1200万人であったが、今ではポ－ランドとフィンランドを加えなくても8100万人もいる。さらにロシアは征服を重ねたため、人口は増え続け１億300万人を超えた。要約すると1719年から七十年間に、ヨ－ロッパ人口は二倍になった。そして19世紀には二倍をはるかに超す数に達している。さらに銘記しておいてもらいたいのは、ヨ－ロッパ民族は北米に約7000万人の人口を移民させ、加えてごく最近にはオ－ストラリア、ニュ－ジ－ランド、南アフリカ、その他世界各地に植民していることである。イギリスの支配下だけで、つまり現在の英国ビクトリア女王のもとに約３億4400万人もの国民がいる。 
&lt;p&gt;　さて西洋民族がこのように、大発展をとげた意味は何であろうか。古代ロ－マ帝国の総人口はおそらく１億1000万人そこそこだったであろう。ヒュ－ム [英1711～1776] もギボンも、アウグストス [在位BC30～AD14] 皇帝時代の古代ヨ－ロッパの人口は18世紀のヨ－ロッパの人口よりも多かったと考えた。しかしヨ－ロッパの人口は現在、古代ヨ－ロッパの三倍になっており、その最大の増加はごく最近の、ほとんど百年以内のことであった。原因は何であろうか。また何を意味するのであろうか。 
&lt;p&gt;　その原因は確かに、一つには産業と技術の進歩、一つには医学（生命保持、健康維持方法）の発達によるものである。しかし、いかなる農業の改良、いかなる衛生学上の発見、いかなる科学や産業上の発明も、ただそれだけでは、人口増加の原因を充分には説明できないであろう。ロ－マ帝国の支配下では、おそらくその土地では養いきれないほどの人口を擁（よう）していたと思われる。今日、その人口はロ－マ時代の三倍になっているが、土地は三倍の食糧を生産していないのは確実だ。事実、西洋は現在自給できていないのである。ただ外部からの食糧援助を受ける方法を見出したがために人口が増加したのである。ヨ－ロッパ人の生活は人為的であり、厳密には自然ではない。多分ロシアだけは（スカンジナビアもそうかもしれない）自国住民に食糧を生産できるであろう。ヨ－ロッパの大部分はロシアおよび世界の他の国々によって養われているのである。北米、インド、オ－ストラリア、ジャワ、カナダ、南米、中国、日本、ペルシャなど世界各地からヨ－ロッパに食糧を送っている。ロンドン住民は諸外国からの援助なしには、一日たりとも生きていられないだろう。イギリスが戦争で植民地を失うことや、競争によって貿易を失うことについての一番の恐怖は、飢餓（きが）である。テニスン卿[英1809～1892] でさえも『艦隊』と題するバラッド(ballad) で「飢える」という露骨な言葉をはばからずに用いた。 
&lt;p&gt;　「全ての人が飢える時、荒れ狂う民百万の足が、君を君の地位から蹴落とすであろう」 
&lt;p&gt;　もしヨ－ロッパが突然諸外国から食物を得る手段を奪われたとしたら、間違いなく数千万もの人々が餓死するであろう。 
&lt;p&gt;　いかにしてこの食物の供給は維持されるだろうか。通商貿易と快速汽船と高速通信によってである。絶えず人口は増加し、次々により速い汽船が造られ、新規の通商事業が始められ、新植民地が建設される。これらの新たな必要に迫られて、西洋が生き残るために、他の全ての国々に援助を強要している。すでに西洋の産業文明は世界中に広がってきた。今日その圧力を中国や日本が水際で感じている。 
&lt;p&gt;　西洋では、人口増加を移民によって解決しようと努力する。しかしその目的が達成されるほど、速やかには移民できない。その結果競争は激しくなり、ますます人類の生存が困難になる。西洋が世界に拡がり進歩するのは西洋の強さを示してはいるが、それにより地球上の矛盾が激化する。これは西洋文明の弱点をも同時に物語っている。人類が進歩するのは必然的なことであり、争いや労働の苦痛を好むからではない。労働をしなくても生きて行ける国々では、進歩が全然ない。科学、技術、工業における驚異的発明は、――世界をつなぐ電信、無数の鉄道網、数値制御による機械製作、化学の応用による多数の新物質の創造等――いずれも生存の必要性、すなわち何か食べ物を得る必要性の結果にすぎない。あらゆる種類の進歩において、その原動力はひとえに飢えである。これこそ永遠の法則である。西洋民族が全世界に広がろうとしているのは、ただ生存の必要性からである。彼等が速やかに広がったのは、今世紀にその方法を見つけ出したからである。今までの世紀なら、自国で飢え死にしたであろう。 
&lt;p&gt;　彼等は行く手を塞（ふさ）ぐ様々な自然の障害に出会った。殺人的な気候の熱帯地方に移住することは困難である。が、移住した多くの国々で、彼等はその原住民の人口を激減させた。原住民が彼等の目前から姿を消したのである。アメリカからアメリカ先住民が、太平洋諸島からマオリ族が、そしてタスマニアからタスマニア人が、オ－ストラリアから先住オ－ストラリア人が、さらにスペイン系の混血人種までもニュ－メキシコやテキサスから姿を消した。インドはもちろん抵抗しているが、西洋はインドに植民することはないだろう。何故ならインド特有の気候がそこに住む先住民を守っているからである。 
&lt;p&gt;　しかし、西洋の産業主義が極東、すなわち中国に達したとき、それ以上の進出は自然環境の障害とは、大いに異なったものによって妨げられた。西洋がこれまでに思いもかけなかった知力によって抵抗を受けた。中国を征服することはほとんど不可能であった。たとえ可能であったとしても、莫大な費用がかかったであろう。西洋の風俗、習慣、信仰を強制し中国を弱体化することはなおさら不可能であった。中国は余りにも巨大で堅固（けんご）で、破壊も改造もできなかった。中国は抵抗したのである。西洋が中国に求めることのできるものは、ただ貿易だけであることは明白であった。西洋・中国間貿易が始まった。その貿易は西洋が無理強いしたものであった。西洋の商人たちは最初中国人を軽く見ていたが、実際には彼等と対等の取引をしていることに気づいた。せっかくの中国貿易も中国人の手から奪うことはできなかった。それは今もなお中国人の手中にある。将来もずっと中国人の手中にとどまるであろう。後になって西洋人は中国人が通商貿易において対等どころか自分達より「一枚上手（うわて）」であること、国家間貿易のようないわゆる「最高形態の経済協力」においても、はなはだ手強（てごわ）い競争相手であると悟った。 
&lt;p&gt;　中国人が以前には危険でなかったとすれば、それはただ本土に留まっていたからであった。しかし、西洋が中国の開港を強制した後、中国人は外国へ流出し始めた。中国人は南北アメリカの太平洋岸に移住し始めたのである。西インド諸島にも押し寄せた。オ－ストラリアとジャワにも移住した。中国人は、イギリスの東方植民地の最重要拠点の一つであるシンガポールにも中華街を作った。中国は東洋を占拠するような勢いを示した。西洋の識者たちは中国をそのままにしておいた方がはるかに良かったろうとさえいい始めた。 
&lt;p&gt;　最初に脅威を感じた国はアメリカであった。カリフォルニアでは誰も中国人と太刀打ちできないことがわかった。中国人は商業を吸収し、貿易を独占し、競争相手の労働者をその市場から追い出した。革命、暴動、虐殺が起こった。 
&lt;p&gt;　次第に西洋諸国は恐れをなし、アメリカでは二年前に中国人移民を禁止する法律が通過した。アメリカ人は商業や産業では中国人と競争できないことを理解したからである。 
&lt;p&gt;　オ－ストラリアも同様の措置をとった。中国人のオ－ストラリア移住を防止しないと、イギリス人はそこで生活できないことがわかった。オ－ストラリアは中国人移民排斥の法律によって自衛したのである。 
&lt;p&gt;　ジャワではオランダ人の入植者が別な脅威を感じた。オランダ植民者は中国人を襲って五千人以上を殺した。現在では中国人は一定の制限下にジャワに定住することを許可されているが、その結果ジャワ人は次第に姿を消しかけている。中国人はどんな気候にも耐え、いかなる産業上の競争にも勝つことができるからである。ジャワの気候はヨ－ロッパ人には過酷すぎるから、オランダ人は中国人の定住を許可しているのである。 
&lt;p&gt;　どのようにして中国人は西洋とこのような競争ができたのか。一部は彼等の知恵にもよるであろうが、それにもまして彼等の異常なほどの節制・倹約生活によるのである。西洋人の少なくとも十分の一ほどの安い生活に慣れていたから、西洋のいかなる大資本もかなわない経済的強みを中国人は持っていた。職人としても比類がなく、西洋の職人のする仕事は何でも自分の手でこなしただけでなく、さらに半額以下の費用でやってしまうこともできたのである。 
&lt;p&gt;　では、もし中国人が西洋の産業機械や科学知識を国際競争に利用することにでもなったら、どうなるだろう。西洋にとって由々しい事態になる。それは西洋の通商が東洋から追い出されることを意味しよう。いや、それ以上の意味を持つことになるだろう。西洋の人口が二倍、三倍、四倍となり、西洋の拡大が続いていた間、東洋はほとんど静止していた。しかし、西洋が東洋の門をこじあけようとした時、無限の、測り知れぬ大きさを持つ活動的勢力が動き出した。東洋もまた膨脹しはじめたのである。東洋が自らの発展のために、西洋の機械技術を採用することになると、西洋は五十年前には夢にも思わなかったような危機に直面せねばならないことになる。 
&lt;p&gt;　西洋にとって大変幸運なことは、中国の動きが遅々（ちち）としていることである。中国は現在西洋諸国の産業方式と機械装置をまだ少しも採用していない。ただ戦争に備えているだけである。ロシアの脅威のため中国はイギリスと同盟した。イギリスは反ロシアで中国を支持し、その代わりに中国は、インドをロシアから防衛しようとするイギリスに協力すると約束している。イギリスの将校は中国に西洋の軍事技術を指導している。中国の工場は今では最高級の小銃を造っている。中国はすでに120万人の兵力動員ができるが、それがみな西洋の軍隊のように装備、訓練されれば、いかなる列強もあえて中国を攻撃はしないだろう。しかし結局、中国が西洋の科学と産業をいつかは取り入れるようになるのは確実であり、それが西洋にとって最大の脅威となろう。民族の将来が決められるのは戦争によるのではなく、それは産業と科学の競争によるのである。 
&lt;p&gt;　商業上の知恵は、しかしながら、最高のものではない。最高のものは科学的知能である。中国はこの方面の才能の証拠をいまだ示したことはない。一方東洋の別の民族は示している。それは日本である。日本は科学・技術・芸術等の知的分野において、西洋と競争できることを実証している。日本人は商人としては中国人と対等であるとは思わないが、他の点でははるかに程度の高い民族である。私は日本の国民感情に諂（へつら）っていっていると思われたくない。科学・技術・芸術等の研究分野で日本人が西洋と競争できることを実証したと私がいったとしても、現在の日本の知的水準がイギリスやフランスと同等だという意味ではない。事実そうではないのである。しかし、日本の科学者がドイツ、アメリカ、その他の外国において成し遂げた成功を見れば、最高水準の才能を持っていることが充分証明できる。それはまだ大部分潜在的、つまり未開発・未発展の状態であるかもしれない。だがその開発・発展は、ただ時間の問題であり、その時間は長くはかからないだろう。だから中国と日本は共同で極東を代表して、通商においても、また民族間の知的闘争においても、西洋と競争できることを示しているのである。 
&lt;p&gt;　しかし、私が申し述べたい点は知的能力だけではない。対国際関係上の必要性も同様に重要である。中国も日本も自己防衛のために西洋と競争せねばならない。その結果はどうであろうか。 
&lt;p&gt;　産業の発展は東洋・西洋双方で続くに違いないし、人口はともに増すに違いない。地球はただ一定の人口、おそらく二十億人から三十億人しか養えないが、生存競争は続くに違いない。そしてその競争が激しくなるにつれて、全世界を制覇（せいは）しようとする争いになるに相違ない。その結果、弱小民族は淘汰されるであろう。どのようにして淘汰されるのであろうか、地球上から消滅するのである。では西洋か東洋か、どちらが生き残るであろうか。 
&lt;p&gt;　それは経済の問題であり、経済がそれに答えるであろう。 
&lt;p&gt;　二つの民族間に闘争があって一方に知力のある場合には、当然知力の優れた側が征服する、すなわち無知な民族を滅ぼすか、それに取って代わる。その闘争が対等の民族間であれば、その結果は二国連合の形態をとるかもしれない。しかし、二つの民族が知力において互角であっても、忍耐力と経済的能力において非常に異なれば、より忍耐強く、より倹約能力ある民族が勝つに違いない。例えば中国の職人がイギリスの職人と同じ仕事ができ、しかも五分の一もの安価な生活ができるなら、イギリスの職人は市場から追い出されるであろう。それにどれほど高度の才能に恵まれている民族でも、はるかに安い価格で生活できる、対等の知力の民族によって生存競争に負かされる、つまり地球上から追い出される可能性がある。 
&lt;p&gt;　例えば、諸君が蒸気エンジンを一つ買いたいという場面を想定してみよう。いずれも同じ馬力の二つの蒸気エンジンを見せられるとする。一つは、他の二倍の石炭を要し、それを動かすには二倍の費用がかかる。では諸君はどちらのを買うだろうか。もちろん燃費の優れた方を買うだろう。 
&lt;p&gt;　人体も要するに一つのエンジンであって、それを動かす燃料は食物である。我々は、全ての進歩は食糧の問題から起こることを見てきた。生存の困難、つまり食糧を得ることの難しさが全ての努力・労苦の根源となるのである。さて、西洋人の体をある力のエンジンに、東洋人の体を別のエンジンに例えて比較してみよう。もしその二つが全く同量の仕事ができると仮定したら、その二つの相対的価値は使用燃費によって決まるはずだ。ところで一人のイギリス人が生活するには、東洋人の少なくとも七、八人分の費用が必要となる。ならば諸君はどう判断するであろうか。 
&lt;p&gt;　しかし、これはほんのささいな一例にすぎない。単に日常必需品についてだけでも、西洋民族の生活費は、東洋民族のそれより少なくとも四、五倍高くかかる。必需品だけではなく、西洋の実際の生活費は、西洋のどの国と比較するかで異なるが、東洋の二十倍、三十倍、五十倍にもなる。そして西洋のどの民族も多くの東洋人が生活する条件下ではとうてい暮らすことはできないだろう。彼等は餓死するだろう。彼等の必需品はただ現代の生活習慣の産物であるだけではなく、その民族古来の必需品でもあるからだ。鷹（たか）を米で、狼を藁（わら）で飼えないのと全く同じように、西洋人は東洋の食物では生きられない。 
&lt;p&gt;　食物は先ず第一に考えるべきことであるけれども、それが唯一のものではない。所変われば品変わる。民族によって楽しみの内容が違うし、楽しみの環境も異なる。西洋の民族は高価な食物のほかに贅沢な趣味娯楽等が要る。彼等はいつの時代にでも常にそれらを必要としてきており、いわゆる「豊かな生活」(large living)を追い求める。歴史家は、中世以来ヨ－ロッパの貧民の生活状態が、いかに改善されたかを語っている。これは事実であるが、中世においても、ヨ－ロッパ人は東洋人の生活様式に従えなかっただろう。その理由は生理的要因ばかりでなく、心理的要因にもある。ヨ－ロッパ人の精神的幸福に必要ないくつかの条件を奪われたら、西洋人は衰弱してしまうし、人口は減少し、生活意欲をほとんど失ってしまうであろう。 
&lt;p&gt;　諸君は動物学で、絶滅した動物について読んだことがあるであろう。かつて、敵を恐れる必要がないほど強く、また暑さ・寒さ・干ばつなどによって滅ぼされることのないほど恵まれた、驚くべき動物がこの地球上に存在した。この中には、ただ生存価格が高くつくだけのために消滅したものがいたことは確かである。地球が彼等を養えない時が来たのである。それで肉体だけに関する限り、人間も動物と同じような運命を辿るだろう。生活費が余りにも高いというだけの理由で、滅亡する民族が出てくる可能性がある。 
&lt;p&gt;　西洋と東洋が将来競争する場合に、確かなことは、最も忍耐強い、最も経済的な、最も簡素な生活習慣を持つ民族が勝ち残ることである。費用の多くかかる民族は、その結果ことごとく消滅するであろう。自然は偉大な経済家であり、決して間違いをしない。生存最適者は自然と最もよく共生でき、必要最小限の生活で満足できる人びとである。これが宇宙の法則である。 
&lt;p&gt;　現在、イギリスにおける青年の教育費は、日本円で１万６千円から２万円の間である。それと同じ教育は日本ではその半額以下で受けられることはいうまでもない。単に教育の問題だけでも、東洋は西洋の強力な競争相手となるだろう。 
&lt;p&gt;　終わりに、私は日本の貧困はその強みであるという固い信念をあえて述べたい。裕福は将来、弱体化する原因になりうる。諸君は「貧困」という言葉が好きでないとすれば、次のことを思いおこしてもらいたい。「ヨ－ロッパで最も貧しい国はロシアであること、それにもかかわらずロシアはあまりにも強いので、ドイツ、オ－ストリア、イタリア三国が、それぞれ自らを守るために同盟していること、それから全世界がロシアを恐れていること」である。ロシアは貧しくても、有事の際にはいつでも、600万人の騎兵を召集できる。同様に日本も貧しくはあるが、将来少なくとも300万人の強兵を防衛のために動員できないはずはない。 
&lt;p&gt;　ま