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硯水亭歳時記 Ⅱ千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた
July 01 夏越と半夏生今年の職美会(於;都美術館)に出品された作品 「赤毛のアンとグリーン・ゲイブルズ」 すべて手縫いのキルトでした
夏越と半夏生
昨日が夏越(なごし)の日で多くの神社さんなどで夏越の行事が行われたことでしょう。一年を半分に分けて考えられていた時代の産物で、夏越の大祓いの行事はいわば大晦日にあたります。境内に作られた茅ノ輪をくぐって厄除けをし、本格的に到来する真夏へこころを新しくして準備をするものといえそうです。京都では北野天満宮の大祓いが有名ですが、そんななか昼過ぎ、迎えの方々と一緒に妻と杏が退院致しました。杏は無論未だ目が見えないけれど、実家に初見参すると、従兄妹たちが興味津々で出迎えてくれました。初めて世間に出た杏でしたが、風は心地よく、ちょうど夢見心地のするよう陽気な曇天のいいお日和でした。私たちが京都で住む場所を充分準備出来ていなかったせいもありますが、義父母の熱い思いが、とりあえず別戸仕立ての離れで住むようになったものの、大家族での杏の成長をしばらくお願いすることになったのです。大所帯での生活は私の憧れでもあります。義父母は杏の誕生を何よりも歓び、杏を宝物のように大事にしてわれ先に抱っこしますが、そこは母親の強いところ、妻は間もなく杏を取り上げて抱き癖をつけないようにと両親に厳命するのでした。 妻は「赤毛のアン」の作者モンゴメリーだって、ターシャだって、人生の一番忙しいときに最もいい仕事をした人だから、ワッチにだってやれる、杏が生まれて途方もなく忙しいこんな時期こそきっといい仕事が出来るのえと確信めいていいます。早めに夏休みをとり心置きなく杏と過ごし、今まで経験がなかった真夜中に一緒に目覚めて授乳させたり戸惑いが多いけど、素敵な素晴らしいいい兆候よと明るくいう。博士号後期ともなれば指導教授から手取り足取りで教えられることもなく、自分で新しい分野の開拓が必須で、ちょうどいい時期に杏は生まれたと目を輝かせていました。あなたは未だ完全に会社を終えていないし、これからのことを考えたり実行に移すしっかりした土台を作るべきで、ワッチと杏は大丈夫だから東京に帰るべきだというので、昨夕東京に帰ってまいりました。三人はずっと一緒だったので、情けないことによほど疲れていたのでしょうか、ベッドに潜り込んだきり御飯も食べずに今朝遅くまで眠っていました。朝一番、膝の手当てを受けに病院に行き、悲鳴をあげていた膝から水抜きする太い注射針をさされぐっと我慢、一週間ぶりに会社へ。皆さんから大変な祝福を受けました。改めて慶びを実感した次第です。 今年は太陽の黄径100度になる今日が半夏生(はんげしょう)。普段は夏至から数えて11日目ですが、今年はいつもの年の2日ではなく今日です。物忌みをする日で、農家ではこの日以降田植えをすると収穫できないとか、この日田圃の仕事を休むとか、その地方地方によって伝承や習慣が少々異なりますが、現在関西では蛸を食べる習慣が一般に根付いています。蛸の足のように大地に踏ん張り、五穀豊穣を祈るためでしょう。また今日から山鉾巡行の日まで長い祇園祭りが始まりました。西洞院通り四条上ルの妻の実家周辺では蟷螂山(とうろうやま=かまきりの作り物があり、それが唯一のからくり人形の山鉾で、別名かまきり山)が出されるはずです。永いこと中断していた山鉾は昭和56年に再興されたもので、今日のクジ引きで巡行の順番が決まるのでしょう。病院は左京区にありましたが、あの祇園さんのお囃子は商店街の放送か何かだったのでしょうか。実家は中京区で、ここはまるきり本場の中にあり、いずれにせよ祇園囃子の真っ只中にあって、杏はこのお囃子の中で生まれたことにもなるのでしょう。 たった一日、杏と逢わないだけで淋しさでいっぱいです。日に日に丸々としてきて、ようやく顔がはっきりしてきたようですが、そのうちこのブログでも杏がお目目をぱっちり開けるようになったら写真を公開する所存です。でも予め申しあげておきますが、驚くことに何とまぁ、私にそっくりになってきたのです。部品だけかと思ったら、顔全体が、父親似の女の子なので、それが将来禍根を残したり不幸にならなければいいのですが、私には何とも申しあげられません。でもまだまだ変化して行くのでしょう。大人になって妻に次第に似てくるなんて、普通にありそうです。目は妻の目に似ているように思われ、少しは救われた思いです。この子は光の子だと妻のいい、私は妻にとってギルバート・ブライスのような若者の存在ではないですが、妻は「赤毛のアン」を読んで育った割にはアンとは全く対照的です。でも「赤毛のアン」はアンの夢想の世界を生きってそのまま突っ走っることに意味があると妻は頑なに申しておりました。杏に、そんな思いの丈をつないだのでしょうか。さて本日は半夏生につき、何やらお正月のようにも考えられ、いざ新しく生きめやも!壮大な夢の世界へ向け、いざ生きめやも!
June 25 女の子誕生!
6月25日 誕生花『昼顔』 花言葉は「絆(きずな)」
女の子誕生!
妻の様子は昨日から少々可笑しかったのだが、今朝電話したら、「ううんまだ大丈夫、予定日までまだだから」と言って元気よく学校に行った。ところがお昼の時間に妻から会社に電話が来て、急にお腹が痛くなり、病院の先生に電話したら直ぐにいらっしゃいと言われ、兄の迎えを今か今かと待っているところだと言う。それを聞いてもう気が気ではない。実家の父に電話したら、Ryuの会社に行くから、直ちに一緒に京都に行こうと勇ましい。CEOに事の成り行きを話すと直ぐに行きなさいとおっしゃる。父と合流後、2時過ぎの新幹線に飛び乗って早速京都駅まで。新幹線の中で走り出したい心境を隠せない。京都駅から杖をつき歩き、タクシー乗り場まで遠い遠い道のり。 病院に着いたら、妻は既に分娩室の中に入っていた。私は義父母や父に構いなく、それらしい扮装をさせられて分娩室の中へ。妻は汗だくの状態で既に三時間も息張っていた。周期があるらしく、時々休む状態にもなる。私は初めての分娩室に気が遠くなるような不思議な気持ちでいる。遅くなって御免ねと言うなり、妻は私の手をしっかりと握った。私は妻の顔の直ぐ傍にいた。フッフゥハァ~フッフゥハァ~と、いつしか私も一緒になっている。周期が次第に短くなるようだが、妻は驚くほど冷静なのか大声をあげたりしない。恐るべき忍耐力なのだろうか。痛みにしっかり対応して意識はしっかりしている。そうして約2時間後、妻はギャァ~~~ッと最後の渾身の声を張り上げたかと思ったら、コトッと静かになった。すると、その瞬間である、看護士が臍の緒を切った瞬間、赤ちゃんの大きな産声が元気よく聞こえた。妻は穏やかな顔をしていたが、赤ちゃんの泣き声を聞いた一瞬、冷静な妻の目にも大粒の涙が次々と溢れ出ている。私も元気な赤ちゃんをひと目見るなり、一緒になって、ひと頻り泣けた。今までに一度も経験しなかった感動でいっぱいで、妻はどっちと言う。そそうそうだった、オトコかオンナか、看護士は女の子ですよ、体重は2980グラムですときっぱり。「母子ともにお元気ですよ、素晴らしいご安産でしたね」と医師が優しく言い、産後の処理をしている。妻にちょっと待合に行くからいいい?と聞いてから、外の待合で待つ父たちに「無事元気な女の子が誕生しましたっ!」と涙を拭おうともせず伝えた。父は私をはしっと抱いて歓び、父も人目を憚らずオイオイと泣く。男系家系の義父母や義兄たちも飛び上がって歓びを表現している。四人目の孫で初めての女の子だと言う。何と言う光景だろうか。 個室に運ばれて来た妻、赤ちゃんと既にちゃんと面会したらしく、まるでお猿さんのような顔でシワクチャだったわと。私はでかしたSよ、有難う!と何度も手を握り声を掛ける。横になると私は彼女の額に軽くキスをして労った。外で待っていた人たちが次々にお祝いを言いに部屋の中にやって来る。ちょっとと言うなり、妻は疲れのせいかぐったりと休む。静かに休ませてあげようと父も義父母に連れられて、妻の実家に行ったようだ。妻の寝息は実に心地いい。でも間もなく看護士がやって来て、何やら私と反対側の方に立って始めた。妻の胸を暖めたり何かしているらしい。何と聞けば、今夜から赤ちゃんと同室だと言う。妻は当然でしょと言うように私の顔を見る。既に母親の顔をしている。小さい赤ちゃん用のベッドは運び込まれていた。赤ちゃんが看護士に抱かれて運ばれて来る。正式には私は初対面。妻の言う通り皺クチャの女の子で、多少がっかりしていたが、それを看護士が察してか赤ちゃんの表情は日に日にガラリと変わって来ますよと優しく言い置いて、代わる代わる看護士が来る。泣いている我が娘。何と言う元気な子だろうか。生命の誕生は何て幽妙なものだろうか。生命が果て原子に返って永遠に死に行くものもあれば、こうして儚いかも知れない人生の第一歩を力強く歩み出す小さな生命の娘もいる。我が娘はもうおっぱいを欲しがっているようで、今日の今日果たして出るのだろうか。ところが何も心配は要らなかった。看護士の手当てで乳房から初乳が出るようになっていたのだ。初乳は大事なんですよと看護士が言う。しばらく授乳のさせ方、夜の過ごし方などを熱心に話している。何もが驚くべきことである。オトコはなぁ~~んにも出来やしない。オンナって凄い! 今夜は赤ちゃんに授乳をさせたり、赤ちゃんが大人しい時はせっせと眠ったりで結構忙しないようである。今夜だけではないはずだ。でも私には何も出来ない。出来ることは何でも少しでもやろうと思うが、今宵妻のもとで一緒に泊まることにした。おむつの交換の仕方を既に教えて戴いている。すると妻は「杏ちゃん!偉かったねぇ」としげしげと赤ん坊の顔を見て名前で呼んでいる。私たち二人の間で付けた名前を呼んでいた。「杏(あんず)」と書いてアンと読ませる。オトコだったらこれ、オンナの子だったらこれにしようと前もって付けていた名前だ。親同士も本人たちの意思に任せるとなっていたから、そう勝手に名付けた。まだ公開はしていない。この名は平凡かも知れないが、私も思わず泣いている小さな生まれたての赤ちゃんを恐々とそっと抱き上げ、「杏(アン)」と小声で呼んだ。軽かったが、抱き上げて初めて実感が湧いて来る。赤子とはよく言ったもので、顔が真っ赤でお猿さんのようで皺クチャであっても可愛い子である。小さな小さな生命、不思議で不思議でならない。10日も早く生まれてよっぽど早く私たちに逢いたかったのだろうか、ううんそうじゃない、私たちだって貴女とどんなに早く逢いたくて堪らなかったか!夕方6時過ぎに生まれ出たばかりなのに、もうここでこうして新しい家族が一緒にいる。凄いことで言葉にならない。私は生まれたての杏を目の前にして何故かもう一度泣けた。 妻が眠りについている時、今日の誕生花を調べると「昼顔」と検索し、それを僅かな眠りから覚めた妻に知らせた。花言葉の意味は「絆」だと言う。日に日に表情が変化し、誰に似て来るのだろうか。漆黒のフサフサした柔らかな黒髪はどう見ても妻似ではあるが、どちらに似て来るのかこれからが楽しみなのだろう。それにしてもよく泣く子だ。私にそっくりなのだろうか。先ほど一瞬だけ杏は目を開けた。目が見えるようでクリッとしててとても大きな瞳だった。この子は将来どんな女性になって行くのだろう。楽しみである。私はいつも黒子となって守ってあげれればいい。出来れば母親似になって欲しい。わら天神さま有難う!皆さんにも有難う!などと、あれこれ考えると今夜はとても一睡も取れそうにない。時間が経つにつれ、歓びのマグマが爆発しそうである。まだまだ書き足りないことがいっぱいあるのだけれど、眠ったり目を開けていたりする妻を目前にどうも書き辛い。けれどネットでいつもご心配を戴いている方々に、先ずはご報告出来ればいいのである。私もついに人の親にならせて戴いたと。
<コメントをお書き戴いても、コメ辺が遅くなるかも知れません。予め御断り申し上げます。有難う御座いました> June 22 追悼 ターシャ・テューダー
追悼 ターシャ・テューダー
皆さま、今朝は最も哀しいことをお知らせしなければなりません。私たちの憧れの人、あのターシャが18日未明亡くなっていたのです。死因は明らかにされておりませんが、バーモント州マルボロのターシャのご自宅で亡くなられていました。享年92歳。今朝は哀しくて哀しくて胸が張り裂けんばかりです。何を見ても涙が次から次に溢れてまいります。実は去年の暮れボストンにいる友人から、今年のクリスマスでターシャは元気がなかったようだよと伝えられていましたから、或る程度の覚悟はしていたのですが、こうしてターシャのいない世界を考えると、どこか寒々として、どうしても信じ難く、まるで私がもう一度母親を亡くしたようなものじゃありませんか。心から心からご冥福をお祈り申し上げます。
貴女からどれほど多くのことを学んだことでしょう。生きる勇気、生命の輝き、自然への崇敬、そして人間への深い愛情。単に、世界の造園愛好家の垂涎の的になっている極上の庭園を自らの手で創ったからではありません。貴女のすべてへの姿勢が大好きだったからです。何でも自給自足の法則で、自然との調和を一番大切にされ、まろび、謳歌し、そこに深淵な神を感じ、生涯働き抜いて来られました。「人生は短いものよ、だから好きなことをしなくっちゃ」 13歳のお誕生日で買って貰った牛をあんなに歓び、両親離婚後直ぐに自立した農業の道へ。それから今日までどんなに頑張ったことでしょう。「最近の人は辛抱することを嫌うけど、庭造りにも人生にも辛抱は必要よ。必ずしも辛抱だけじゃないわ。辛抱しながら待っている間はずっとワクワクしていられるのよ」 絵本(私の母親から買って貰ってボロボロになるまで親しんだ絵本があります)に、農業や四人の子育てに、ガーディニングに洋裁に人形作家にもなったし、一流の料理本も出している。「時間をかけてすることは、それだけ愛情を注ぐことよ」 実践者ターシャの言葉は一つ一つ意味があり深い愛情に満ちています。晩年長男セスはスープの冷めない距離にいて、母ターシャを手助けしましたが、孫のウィンズローやそのお嫁さんのエイミーと共にターシャの庭のお手伝いをしました。 今は6月。ターシャが最も好きな季節です。アン・シャーリーのいたプリンス・エドワード島も北国だから春は遅いです。日本では3月の季節が、ちょうどこの6月にあたり、春と初夏が一度にやって来たようになり、この時季一斉に花々が咲き競うのです。ターシャはこれを「Bright Season (輝きの季節)」と言っておりました。何と幸せなことに、一番好きなこの季節に、ターシャは帰天されたのです。やはりターシャらしい逝き方だと溢れる涙を抑えながら観念しなければならないでしょう。 今頃大好きだったグラハム・ベルおじさんやマークトゥインおじさんやアインシュタインおじさんなどと「ネッネッ!人生ってとっても素敵で最高に面白かったよ」と明るく振る舞いながら皆さんと一緒に談笑しておられることでしょう。
今手許にターシャのエッセイ集があります。すべてメディア・ファクトリー社から刊行されているものですが、87歳で書かれた「思うとおりに歩めばいいのよ」 88歳の時に書かれた「楽しみは創り出せるものよ」 89歳の時に書かれた「今がいちばんいい時よ」 そして91歳で上梓された「生きていることを楽しんで」 夕べも「赤毛のアン」を懸命に読んでおりましたが、せめて今日はターシャのこの遺言に似た美しい珠玉の本を静かに繰り返しながら読んでいたいと思います。きっとターシャの庭は自然に返されることはないでしょう、最後はエイミーにすべてを託したのだから。
<写真の著作権者はすべてリチャード・W・ブラウン氏に帰属します。 主に「ターシャ・テューダーのフォトポストカードブック」から拝借致しましたが、 メディア・ファクトリー社さまのご協力の賜物です。心から感謝申し上げる次第です> 最後に、我が主人が書いた「輝きの季節」(櫻灯路にて)を是非ご参照くださりたく!
June 21 妻のこひしき
妻のこひしき
仕事が一段落し、堪らなく人恋しくなって夕方妻に電話した。相変わらず元気で、同じ時刻に就寝し、同じ時刻に起床する。特別真夜中まで勉強しない方が断然捗(はかど)るらしい。耳の痛いことである。今夜もこんな時間であれば、着ているものをきちっと折り畳んで枕元に置き、お腹の子とともに深い眠りに就いていることだろう。先日NHKのハイビジョンで放映された「お~い、にっぽん、私の好きな京都府」のビデオを観ていた。美山の鮎や空中から観た古都の珍しい映像が面白かったが、最後締め括り「ふるさとラプソディー」の中で謳われた旧三校の寮歌に思わず圧倒された。一校(東大)の「嗚呼玉杯に花受けて~」は聞き慣れた歌であるが、三校(京大)の「紅萌ゆる」(逍遥の歌)は初めて聞き胸がジーンと熱くなった。澤村胡夷という方が学生時代に書き上げた歌らしい。「紅萌ゆる丘の花 狭緑(さみどり)匂う岸の色 都の春に嘯(うそぶ)けば 月こそ懸(か)かれ吉田山 緑の夏の芝露(しばつゆ)に 残れる星を仰ぐ時 希望は高く溢れつつ 我等が胸に湧きかえる 千載秋(せんざいあき)の水清く 銀漢(ぎんかん)空に冴(さ)ゆる時 かよえる夢は崑崙(こんろん)の 高嶺の此方(こなた)戈壁(ごび)の原 神楽ヶ岡のはつしぐれ 老樹の梢(こずえ)伝う時 穂燈(すいとう)かかげ吟(くちずさ)む 先哲(せんてつ)至理(しり)の教えにも」 土井晩翠の詩にも似た美しく高邁な精神性を内包した若き人の歌唱である。早速妻に大学の寮歌のことを聞いてみた。何と11番目まであり、最後の歌は「見よ洛陽の花霞 櫻の下の男の子らが 今逍遥(しょうよう)に月白く 静かに照れり吉田山」で終わるのだと言う。あなたもきっと何か勉強したいはず、だから一緒に勉強しよととんでもない宿題を言われてしまったが、よく考えてみると、確かにそうである。主に東洋哲学を勉強したいとどこかに意欲がある。続けて妻は四年前、二人だけで初めて旅行した松本~上高地(帝國ホテルから河童橋辺り)~安曇野(荻原碌山美術館など)のことをしみじみ思い出したようで、松本市立の旧開智小学校の美しい校舎を思い出すのだと。文明開化の勢いで建てられた美しく豪華な建造物で、明治の人たちの教育に対する熱いものをヒシヒシと感じるとあの時彼女は熱く語っていた。
塩船観音さま周辺の農家から戴いて来たオカメアジサイの花が我が家の屋上ガーデンで花盛りである。文月の最初の週に新しい生命が誕生する予定で、妻と子に対し、さぁ頑張るんだぞという意味を籠めてこの写真を掲載させて戴いた。柔らかな朝の光に映えて美しい。どうか五体満足な子であったなら、それだけで充分でかしたと精一杯妻を誉めてやろう。この花に妻の香りさえ聞こえて来るような気がしてならない。更にあの「ふるさとラプソディー」で歌われたわらべ歌を思い出す。京都の子供たちの元気な声が耳について何故だか離れない。
『丸竹夷<まるたけえびす>』(わらべ歌) 丸竹夷二押御池(まるたけえびすにおしおいけ) 姉三六角蛸錦(あねさんろっかくたこにしき) 四綾仏高松万五条(しあやぶったかまつまんごじょう) 雪駄ちゃらちゃら魚の棚(せったちゃらちゃらうおのたな) 六条三哲(ろくじょうさんてつ)とおりすぎ 七条こえれば八九条(しっじょうこえればはっくじょう) 十条東寺(じゅうじょうとうじ)でとどめさす~~♪ 坊(ぼん)さん頭は丸太町 つるっとすべって竹屋町 水の流れは夷川(えびすがわ) 二条で買(こ)うた生薬(きぐすり)を ただでやるのは押小路(おしこうじ) 御池で出会うた姉三(あねさん)に 六銭もろて蛸買うて 錦で落として四(し)かられて 綾(あや)まったけど仏々(ぶつぶつ)と 高(たか)がしれてる松(ま)どしたろ~~♪ 寺御幸麩屋富柳堺(てらごこふやとみやなさかい) 高間東車屋町(たかあいひがしくるまやちょう) 烏両替室衣(からすりょうがえむろごろも) 新町釜座西小川(しんまちかまんざにしおがわ) 油醒ヶ井で堀川の水(あぶらさめがいでほりかわのみず) 葭屋猪黒大宮へ(よしやいのくろおおみやへ) 松日暮に智恵光院(まつひぐらしにちえこういん) 浄福千本はては西陣(じょうふくせんぼんはてはにしじん)~~♪ 女の子も男の子もみんなつんつるてんの和服を着て、両手を前後に振り元気いっぱい歌っていた。清々しい場面であり、京の都の子供たちはこうしてちっこいうちから小路(通り)などの名前を覚えて行き、これさえ覚えていたら迷子になりそうにないのだろう。単純なメロディーで私も直ぐに一緒になって歌っていたが、我が子もこうして覚えて行くのだろうか。祇園さんが終わり大文字が終わって、京都の夏のお祭りの最後を飾るのは子供たちの『地蔵盆(じぞうぼん)』である。我が子も小路小路の角々で他の皆さんとお地蔵さんにお手手を合わせ、一緒に駆け回るのだろうか。日に日に強くなって行く母親としての自覚、女は強しである。それに引き換え私は忙しい合間をぬってリハビリの情けない日々である。松井選手だってタイガー・ウッズ選手だって内視鏡での簡単な膝の手術であったのに、半年の療養ではやはり無理だったのだろうか。タイガー選手は今期絶望と聞く。だからこそ焦らず何とか頑張らねばならない。たおやかな妻の香りを求め、そして元気な赤ちゃんの産声を聞きに早く京都に行くべきであるのだから。恋しい!
(お陰さまで超多忙な日々は昨夜で終了致しました。残された日々はCEOと二人だけでじっくりと過ごします。今日は温泉リハビリには参りません。午後から人に逢い、リハビリし、針治療を受ける予定で、夕刻からパーティです。でも『Anne』を早く読了したくて、要点を済ませたら、サッサと帰って参る所存です。無論明日もリハビリがありますが、頑張ります!)
June 18 15万アクセスを心から感謝申し上げます!
15万アクセスを心から感謝申し上げます!
今日午前、東京芸大のある教授に、私事退職につきご挨拶などお邪魔して参りました。いつもは運転手付きの車両で移動なのですが、今日は極力歩こうと思い立って、何人かの付き添いを連れ電車で移動。更に上野恩賜公園を杖をついてゆっくり歩きましたが、駅構内の人ごみにもまだ恐怖感が消えていませんし、残念ながら一番大きな広場までで、歩けたのは多分800メートルぐらいだったでしょうか。膝ではなく腰に痛みが走ったためで、車椅子に乗せられる破目に。上記写真は国立西洋美術館(現在Corotの絵を特別展示中)に隣接したカフェテラスで一時休憩を取った時のものです。ヨシ!歩くぞぉ!と我と我が身にお茶しながら奮い立たせるためでしたが、極めて残念でなりませんでした。現在、腰の患部に湿布をしている状態です。日ごろのリハビリのきつさが腰に来たのでしょうか。こんなことでは赤ちゃん誕生の立会いに間に合わないんならと焦りがありどうしようもありませぬ。我が身の徳のなさに心そこ嘆いております。 社に帰って、お昼の時間になり、朝自分で作った梅御飯のオニギリを食べながら、ひょいとこのブログを開けてみましたら、何と何と「硯水亭 Ⅱ」のブログにアクセスして戴いたのは、実に15万アクセス(実質11ヶ月)を突破していました。ついでに「櫻灯路」を開けてみたら、何とこちらは何もしていないのに、31万4千以上のカウントが刻まれていました。このブログに必ずカキコを書いて戴いている日本随筆家協会員の大恩人の道草先生始め、連日おいで戴いている大好きなブログのHayakawaさまや、以前からお付き合いの素敵なブログ野の花さまや、お姉ちゃまの夕ひばりさまや、同級生の風音さまや、妻と同年輩のりんこさまや、羨ましい田舎暮らしのMfujinoさまや、パリ在住で尊敬するMiyokoさまなど、数多くの素敵なお仲間に恵まれたことでした。殆どカキコをされない友人知人や社員なども非常に多いのですが、後から実際にブログを通して色々な話題となっています。最近では GoogleやYahooなど検索機関からのアクセスも非常に多く、約半数以上になりましょうか。「櫻灯路」は90%以上の殆どが検索機関を通されて読み継がれているようです。 『硯水亭 Ⅱ』 本日お昼 150414件 主人の『櫻灯路』 本日お昼 314317件
このような地味で、下手糞な文章で、でもちょっぴり啓蒙的なブログによくぞお越し戴いたものだと、本心から驚いているとともに、心底から皆さまに感謝申し上げる次第です。こうしたブログを書くことも亡き主人からの引継ぎでありましょうや。今はなかなか落ち着いて書く時間が取れず、でも必死になって真夜中に「赤毛のアン」を読んでおります。『Anne of Green Gables』(赤毛のアン)/『Anne of Avonlea』(アンの青春)/『Anne of the Island』(アンの愛情)/『Anne of Windy Poplars』(アンの幸福)/『Anne’s of Dreams』(アンの夢の家)を読了し、時々朝まで読み耽っています。所々難解な文章が出て来て、私には如何に文学的素養がないのかと心細くなりながら、現在は『Anne of Ingleside』(炉辺荘のアン)の途中で、アンが主婦になり子供が出来、夢の家より大きな炉辺荘に移ったアンのお話です。最後末娘のリラが出て来るお話まで後二冊で終了です。男の子だって「赤毛のアン」は大好きで、密かにそんなことを証明したくて読んでいるだけですが、第二のアンが作家モンゴメリーなのか、第二のアンがアン・シャーリーなのか面白く迷いながら大いに楽しんでいます。と同時に、これから新しく来る私の人生の曲がり角を、アン・シャーリーのImaginからより多く学びたいものだと真剣に考えております。今日もおいで戴き、有難う御座いました。
June 16 嘉祥の日
写真は京都・甘春堂さんからお借り致しました 夏の和菓子「竹の彩」 是非お一つどうぞ
嘉祥の日
今日6月16日は嬉しい和菓子の日です。お昼に社員全員へ和菓子を配って食べて戴きました。嘗て6月16日には菓子を食べ、厄除と招福を願ったのです。これから暑い夏を迎えるに際し元気を出そうと、夏越(なごし)のお祓いの意味を籠めたのでしょうか。江戸時代には長崎から砂糖が入って来て、急速に今日のような甘い和菓子が誕生致しました。利休の時代は甘味のない炙り昆布や炙り椎茸などが茶の湯の菓子でした。江戸時代になって始めて宮中や幕府でも甘い和菓子が大流行りし、中でも今日16日が重要な儀式となったのです。嘉祥の日(かしょうのひ)と呼ばれました。江戸城の500畳の大広間に二万個を超える菓子を並べ、将軍から順に普代大名や旗本などに下賜(かし)されました。明治以降この行事は途絶えるのですが、昭和54年(1979年)全国和菓子協会は和菓子の日として、嘉祥を現代に蘇らせたのです。 昨日は父の日で、京都の義父にはかねてからプレゼントをお贈りしてありましたが、我が父に、何がいいかなぁと前日電話したところ、久し振りに二人で一献飲み交わしたいというので、湯河原から帰って直ぐ銀座で落ち合い、二人で和食屋さんに入ってお酒を飲みました。外で父子二人で飲むお酒は実に久し振りのことです。登山のせいで真っ黒に日焼けした父は、70後半にも関わらず元気いっぱいで、後8つの山々を登頂すれば、日本100名山を踏破するそうです。妻のこと、退職後のこと、怪我のこと、様々に私のことを話しました。父はどの話題にも嬉しそうに聞き入っていました。登山の話題も出ましたが、早く孫の顔が見たいと、それだけが我が人生最良の楽しみだと申しておりました。余程嬉しかったのでしょう。酔うほどに穏やかになって行きました。私も怪我をしてから初めてしたたか飲みました。これってリハビリにありかなぁという不安をよそにして楽しみました。帰り際父に無謀な登頂を急がないでねと、タクシーを乗り込む時に伝えました。父はにこやかに笑いながら、頷くのです。 このところ超多忙につき、皆さまのブログにお邪魔しブログへのカキコもままならないようで、本当に済みません。でも我がことで恐縮ですが、毎夜疲れてきっていても「赤毛のアン」を読みながら、下書きに、セッセと原稿を貯め込んでいます。アンからたくさんの元気を頂戴して勇気を戴いています。皆さまも是非お元気でお過ごし下さりたくお祈り申し上げます。今宵もまだまだ仕事です。私のラストスパートを精一杯頑張りたいと存じ上げます。
June 14 誌上絵葉書個展 Ⅱ
四万十 カヌーをやってご機嫌 Ryu 昨日の叱り方はいけないよ 叱り方に一切感情は入れないこと
誌上絵葉書個展 Ⅱ
主人は自由人でした。でもそれが仕事の関係上普段まったく自由になれない人でした。たった独りになることへどんなに憧れていたことでしょう。鴨長明の名作はどうしてこんなに短いのとブツブツ言い、長明や兼好や芭蕉を特別愛していました。鴨長明がどんな人だったのか詳細に調べていなかったけれど、長明ゆかりの大好きな下鴨神社『糾すの森』でほっつき歩くのが一番の息抜きでした。夏、下鴨神社である御手洗祭が大好きで、御手洗池に足をつけ、自分の穢れを落としたいとよく言っていました。どこに穢れがあるのだろうと思っていたのですが、生まれて来たのがいけないのかもよと。そんな優しい主人でした。主人亡き後の去年の夏、私たち夫婦はその糾すの森で祝言をあげました。主人が観ていてくれそうで。
沼津の櫻海老の掻き揚げは天下一品 悔しいでしょ サクッとしててフンワリ揚がってて最高 Ryuにも食べさせてあげたかった
花背はおとなしい村だけど 高をくってはいけないよ 三本杉で霊力を感じた ここには何かがある こんなところで住みたいものだ
ここは 山形・寒河江 これからサクランボ狩り 甘いだけじゃ駄目 酸味のあるサクランボが最高
南禅寺・水路閣 初夏の南禅寺はいい! 紅葉の時季の美を煩うことがないからね あっさりさっぱり生きてゆきたいね 頑張ろうねRyu!
屋島から見た風景 ここは何度来てもいいね 反対側の安治山も実に豪快でいい 瀬戸内の海は僕が描かなかったら いつもナギ
日光・戦場ヶ原 黙って来て御免よ 後は頼むね 雲と風に揺られてから帰るからね ズミの花が満開で ちょっと泣けました
阿蘇の根古岳 会津先生のパクリ 叱られるね 西岸殿寺に廻って 菊池の松囃子に行ってから帰ります
奥日光の散策道を丸沼に向って歩いています 風は友 雲はライバル 雨は恋人 今夜は雨に打たれるでしょうか だったらいいのに
大歩危・小歩危 トレッキングをしていると 適度な哀しみと一緒になれて嬉しい 四国の人は皆優しいです 風も雲も雨も
小樽の岬の突端を半日見ていました 観光客が大勢 その中に入ると逆にうらぶれたようで嫌でしょうがない 独りがいい 独りが
永観堂の見返り阿弥陀さまから 元気を戴きました 永観(ようかん)早く悟れと振り返りたり
金子みすゞを探しに下関で新幹線を降りました 仙崎まで行くつもり 「積もった雪」が好き <中の雪 さみしかろな 空も地面も見えないで>
奥羽本線で山形に来たら 霞城の櫻があんまり綺麗で途中下車 でも皆ソメイなの 江戸彼岸の大木「お達磨櫻」に逢いに行って来ます
あのさぁ 四月寒かった時があったよね それで京都の櫻がずっと散らなかったよね あの時ってRyuと二人でずっと京都にいたよね
彼女と二人でご先祖の墓参り ジベタの下の皆さんも歓んでくれているでしょう いとおしい人と手をつなぎたまひて
伊豆・稲取から 下田の突端を廻って爪木崎 そして堂ヶ島から修善寺へ どこに泊まってもいいかい うるさいRyuよ 許しておくれ
主人の絵葉書の出来は本人からしたら、全く出来が悪く、このようにして公開されることを一度も考えたことがなかったでしょう。飽くまでも私に対し出したメモ書き程度に過ぎないのですから。油彩だったらお見せ出来る作品が結構多いのですけれど。私にしか見せないつもりの、普段の顔をした絵ばかりですから、気楽にひょいひょい描かれた絵ばっかりです。でも折角ですので、実際の絵葉書よりやや大きめにして貼り付けました。そしてこうして公開することによって、本人への何らかの供養になるのではないかと、そう考えた次第です。まだまだたくさんありますが、時々の公開と致しましょう。食傷気味になられると皆さまに本音で悪いなぁと思ってますから。今日も御覧戴き、心から感謝申し上げます。
本日、岩手県の滝沢村で『チャグチャグ馬っ子』が挙行されたようですが、今朝午前8時43分頃、岩手県や宮城県を中心に大変な地震が起きたようです。未だ全容が明らかではありませんが、被災地の皆さまに衷心からお見舞いを申し上げます。私は現在湯河原で温泉リハビリ中ですが、東京に帰り次第場合によってはボランティアとしてお力になりたく、社員数人を差し向けるつもりです。どうか頑張って下さりませ。明日は我が身であり、お互い様です!
June 11 ニャニャンと麦秋のころ
ニャニャンと麦秋のころ
実家には飼い猫がいた。この絵は姪っ子のリンちゃんが小学三年生の頃に描いて貰った当家の猫だ。祖母が可愛がっていた。名前を画家モネにちなんでモネと名付けていた。普段一匹だけいるはずなのに、どこから集まって来るのかモネがもてる子なのか、大抵2~3匹以上がとっかえひっかえ同居していることが多かった。父も叔母も猫好きで、猫君の誰が来てもいいように、どんな猫にも餌を与えていた。来る者拒まず去る者追わずなのである。最初モネもその無宿人の一人だった。モネは最初っから我が家だと思っていたらしく、ずっと居続け常に横柄な態度だった。それもその筈で、当然猫が自由に出入り出来るように、小さな穴がお勝手や広縁のところに幾つか開いている。そこから自由に出入り可能であったのだ。猫にも先輩後輩があるのだろうか。モネはいつも威張っていた。特に祖母はモネを猫っ可愛がりして大事にしていた。急に祖母が亡くなり母も急に亡くなってから間もなくモネも母と同様に交通事故死で亡くなった。それでもしばらくはどこかの猫が何匹かずっと居候をしていた。家猫と野良猫は明らかに違い、家猫は餌を捜し歩く心配がないので、寝相も悪いしお腹だって真上にして寝ることがあった。多分20時間は寝ているだろうか。モネは人間のトイレでも用足しをすることが出来た利口な猫だった。それに対して野良猫は警戒心が強く目が鋭いし、用足しは庭の地面をけっぽって穴を明け、そこに用を足し後ろ足で土で隠していたようだ。おまけに野良猫の睡眠時間は家猫の半分近くしかない上、耳を始終動かして警戒しながら立ったままで眠る猫すらいる。完全に丸まって寝てくれてもよさそうなものだが、箱座りする。でも数日間か経つと、いつの間にか平然とした顔をして大きなツラで振る舞い、何匹か居ついた。当然父や叔母たちはこうした猫たちが相手であった。 母が春育ったばかりの青麦を買って来て、あちこちに飾ったことのことである。何とモネが猫じゃらしと勘違いしたのか、いたく気に入ったようで悪戯ばっかりしていた。花器をひっくり返すことだってあった。そして不思議なことだが、ムシャムシャと麦の穂を食べた。毛づくろいをして毛も一緒に食べ、毛が胃袋に貯まっているのを一緒に排便してやる算段だから放っておいて構わないのよと祖母が言っていたっけ。そして芒種の頃になると、青麦は小麦色の麦秋になる。その頃雌猫が最もサカリが来るらしい。今頃の芒種、麦秋の時季だったろう、モネは頻りに外に出たがり、部屋の家具や格子などに爪をとぐ習性が一段と激しくなっていた。そんな或る日フイと家出して居なくなり、近所をみんなで探し歩いたが杳として見付からなかった。大好きな黒澤映画『まぁだだよ』で内田百閒先生役を演じる松村達雄が飼い猫がいなくなって悲嘆にくれオロオロする場面があるが、アレってその心情が実によく分かる。大の猫好きの夏目漱石師匠に私淑していた経歴を持つ百閒先生だから当然と言えば当然なのだろう。モネの家出事件から10日も過ぎた頃だったろうか、近所のお宅から電話が掛かって来て、お宅の猫がウチの駐車場の中に蹲っているよと教えてくれた。早速迎えに行った。雨風で薄汚れていたモネを抱えて家に連れて帰り、お風呂で全身を洗ってあげた。「ミユゥ~~」とほっとしたような泣き声をあげた。しばらくしたら何とモネは妊娠していたではないか。猫にとって最も大切な恋の期間があったのだ。それは多分一年で2回か3回の周期で来るのだろうか。そうだったのかと皆で安堵していたようだが、まだ幼いうちの私には全部の意味がよく飲み込めなかった。間もなく6匹の子猫が生まれた。可愛い順から先に、直ぐにそれぞれ貰われて行った。母が哀しい表情をしていたのを今でも覚えている。 猫同士の恋は雌猫の発情によって、雄猫がつられて発情するらしい(人間とは逆か ぷぷぷ)。でもどの猫でも気に入った猫とだけするが、複数の猫とだってすることがらしい。子猫は一匹だけの父親とは限らないということも聞いたことがあった。交尾の時、雌が逃げないように雄は雌の首筋を噛んで離さないようだ。それは後で人から聞いて知ったことだが、妙に可笑しく微笑ましく思えたものだった。 昨日の朝、妻を京都まで送って行ってくれた叔母に御礼を言いたくて、近くを通った際自宅によって叔母に挨拶をした。京都ではえらいご馳走をして戴いたり、いいお部屋で一泊させて戴いたりで、いい思いをさせて貰ったよと逆に御礼を言われた。でもこのところ猫の姿を一切見たことがない。しばらくぶりに猫の話を聞いてみると意外なことが分かった。恋の季節に外にも出されない飼い猫が、このご時世いかに多いかと言うことだった。殆どマンション暮らしだからだろう。野良猫だって、変にご奇特な御仁が多く毎日餌をくれる公園に、全員が集合する癖がついてしまい、窮屈な家には寄り付かないのだと言うことであった。何だかギスギスした世の中がこんなところまで影響しているのだろうか。完璧に管理されていないと、秋葉原の事件のように突如不本意な不幸に見舞われかねないからだろう。その家に誰彼なく人が集まって来る家はいい家だと、いつも父の言う言葉である。実際は母が癖づけしたことであったが、猫にだって集まって来て貰いたいのだろう。それにしてもなんて世知辛くなった世の中であるだろうか。
主人の最晩年 ブログ上でお付き合いをしていたMさんちの当時の子猫たち 中でも最も愛した子猫 お元気だろうか
June 09 憂き目もさめぬ夢のひとひら
憂き目もさめぬ夢のひとひら
梅雨のこんな日の午後、研究室の外にドサッという大きな音が響いた。窓を開けてみると、女が一人、どくだみの花が群生している中に、うつ伏せになって倒れている。院生の子供たちと、直ぐ戸外に出て駆け寄ってみると、何と義妹ではないか。直ちに救急車に通知し警察にも連絡し、救急隊員から、一瞬に収容してもらうが、首の骨折だったのか既に息絶えていた。鼻や頤付近から出た大量の血だけがドクダミの花を汚している。警察が来て反対側の建物の屋上を調べる。靴が揃えて脱がれてあって簡単なメモ書きも添えてあったという。即日自殺と断定され、同日未明、同じ校内にある大学病院から遺体を運ぼうと、それもKがみている院生の数人だけでせざるを得なかった。少し離れた場所の教養学部にいる主人に連絡をとってみたが、行き処不明につき止む無く義母に電話し、大学病院の裏手にある官舎の自宅に運ぶことになる。院生全員が白布で包まれた遺体を担架に乗せたまま自宅に運び入れようとしている。義母は淡々としていて、座敷を片付け布団を敷いて待っていた。不思議なことだが特別泣こうともしていない。 その夜遅くなって主人が趣味のハングライダーを抱えて帰って来た。お坊さんの手配やら葬儀の相談やら誰とどうしていいものか分からないまま、Kは必死になってあれやこれやっていたのだが、そんな主人と今更口論する気力も残っていない。義母も相変わらず表情一つ変えず縹渺としている。帰って来た主人は既に聞き及んでいるかのようで、ムスッとして帰るなり黙り込んだままで、妹の亡骸に一瞥をくれると直ぐ自室に入ったきりである。仕方なくKはこの勤務地から数百キロ離れた遠い実家に電話する。どうすればいいのかどうしてだろうかなどと、何をどう話したのかよく覚えていない。返って来た実家の返答は殆ど当たっていないように思われ、ただ父が明日飛行機で来るということだけは微かに脳裏に残っている。 義妹の遺体にひと晩添い寝をして夜を過ごす。葬儀屋が来たのだろう、最低限簡素にして飾り付けられた遺体を居間中央奥に安置し、その部屋には誰一人としていない。親も兄妹もないのだろうか。それが悔しく、涙さえ出て来ない。義妹は東京の大学に行って三年、詩人になる夢を密かに夢みていたのだろう。東京での暮らし向きはどんな生活だったのだろうか。Kは文京区護国寺近くの国立女子大を卒業して、東京には馴染みがないわけではない。そこで大学院を終え、更に京都大学で医学のドクターを取得し、また英国・ケンブリッジ大学医学部のドクターまで取得して、現在は地方大学医学部の准教授となっている。学生に教える厄介さを感じつつ、ただ研究することだけが唯一に報われることであった。そしていつしか新しい勢力の微生物学研究者として、日本では著名な研究者になっている。Kは深い溜息をつぎ、お線香を絶やさずにし、まんじりともせずここ最近のことを呆然と思い出している。それも先ほど義妹の部屋に初めて入って机の近辺を見、乱雑で汚く足の踏み場もない状態の中を、この五年という永い彼女の鬱病の軌跡だけが透けて見える。異常なほど多く散らばっていたノートには数多くの詩篇のようなものが書かれてあったが、無論読む気にはなれなかった。 夜が更けるにつれ、眼が冴えて来る。お線香だけは無意識のうちに絶やさずにしていた。奥の間にいる主人は教養学部という性格なのだろうか、教えることだけが異常に好きであり、そこがKとは決定的に違うところであるが、結婚後直ぐ生まれた一人息子が誕生して以来、単なる同居人であるに過ぎない。勿論Kの立場だってそうだが、毎週泊り掛けで出掛けるハングライダーが唯一の趣味を持つ平凡な男だ。酒もタバコも一切やらない。母親はとっくに母親の威厳を失い、どこに転勤があってもどこにでも付いて来て同居させて貰うだけで充分である。だが一人息子は妙に義母に懐いている。今夜も一緒に寝ているのだろう。但し目の前のマグロのような義妹は自分の兄にだけ心を打ち明けるのが殆どで、Kとは会話一つした記憶がなかった。繊細な子で、普段殆ど口も利かない義妹だが、兄とだけは饒舌に喋り、何も知らない人が見たら恋人同士に見られるらしい。一度、先生のご主人が若い子と一緒で仲良くイチャイチャとしていたと告げ口があったぐらいである。だが二人の関係に、殊更問い詰める気はさらさらなかった。普段から尋常ではないことだけは確かだと何処かで変に妥協していたのかも知れない。Kにとっては兄を慕う妹、ただそれだけでいい筈であった。でも・・・・・・・、何故敢えて私の研究室のまん前の校舎を、自分の死に場所に選んだのだろう。本人にとって深刻な中(あ)てつけだったのだろうか。でも何故どうしてと、何度も頭の中は空転するばかりで、それだけがどうしても腑に落ちなかった。 夜がしらじらと明けて来る。山風がひんやりとして初夏とは思えない涼しさ、そうだ眠っている場合ではない。結婚以来何があっても三度の食事を作って来たし、今更変えるはずもない。洗濯もキッチンも何一つ言われないように意地があった。義母や長男のことや、そして主人のことや、家のことだけで山ほどのことがある。学問を続けて行くために決して一つも等閑(なおざり)にしたくはなかった。自宅と研究室はたった300メートルしか離れていない。それは救いで、研究室と時々抜け出せた。そんな鷹揚なことがあって、意地を貫くことも出来た。Kは改めてそれを覚悟すると、情けなさと到底許せない不甲斐無さをグイと胸の中に押し込めた。そうこうしているうちに早朝から葬儀屋が来て、祭壇を作るという。そうだった、夕べ通夜も葬儀のこの社宅から出すと言ったからだ。9時過ぎだったろうか、主人が自分の部屋からノッソリと出て来たと思ったら、いつもの通り鞄を片手に家を出ようとしている。さすがに堰を切ったように、「今夜は通夜、明日はお葬式、一体どうするつもりなのよ。可愛がっていたあなたの妹のことでしょ!あんまりだわ」と言うなり、そこにへたり込んでしまった。一睡もしていない疲労からで、混乱していたり涙が出たためではない。主人はひと言それを聞くなり出て行ってしまった。そして通夜にも葬儀にも帰って来ることはなかった。 昼過ぎ、Kの実父が尋ねて来て、淡々と通夜の準備が行われた。驚くことに主人の関係者や故人の友人などたった一人も来ることはなかった。義母は喪服に着替え、相変わらず飄々として立っていた。ただやって来たのはK管轄の医学部長やKの関係筋だけで、別に受付することもないのに、Kの教え子たちだけが通夜にも葬儀にも全員が立ち会った。お花が一つも出ず、今まで殆どKが見た事もない葬儀であった。Kの実家は一角の家柄で、すべての留学の費用など父が出している。所謂お姫様であったのだ。そして実家の祖母が亡くなった時どれほどの多くの参列者や花に囲まれたことだろう。それがどんな因果でこのような仕打ちを受けなければならないのか。私に足りないことがあったのだろうか。あれこれ考えるうちに、すべてがあっと言う間に終わり、実父が帰る時、不憫に感じた娘に「貴女が帰る家はあるからね。飽くまでも手伝ってくれた院生たちに対し取り乱したりしてはいけないよ。旦那はきっと哀しみのあまり、貴女に顔向け出来ないでいるだけだから」とそっと肩を抱いた。その時初めて涙が溢れて来て、止まることがなくどうすることも出来なかった。 それからその年は何と言うこともなく過ぎ、家族間の会話が全くないばかりか、しらけた雰囲気のただ中で居た堪れず、次ぎの年の春、その大学を辞し、予てから誘いのあった東京の大学に活躍の場を移して、完全無欠の独り身を守って研究にだけ執心し、義母のところに置いて来た息子の成長を楽しみにしている。息子が結婚したら、彼女も離婚しようと密かに心に決めている。不思議なことだが、逆にそうした独り身の生活がどんなに開放感を感じていることだろう。
主人最晩年の絵 『櫻の根元に花が咲く』
この話を申し上げるのに随分迷いました。現在進行形でご活躍中の彼女に対して果たして出していいものかと。でも先日妻と一緒に品川駅頭で出逢った時、彼女は清々しい表情をしていました。この文章は概略事実に基づいているのですが、彼女への配慮のために経歴など若干フィクションを加えています。彼女は私の小学校の同級生で、幼少の頃から極親しい間柄です。苦痛の多かった結婚をしていた昨日にグッドバイを告げ新しく旅立った彼女は、私たち夫婦に、それは私の人生そのものであったからだと大らかに告げたのです。私たちは心から応援したい気持ちに沸き立ちました。今までのことは今までのこと、新たに頑張っていらっしゃることに、すっかり共感出来たからでありますが、彼女はこんなことも言っていました。結婚を決めたことは同じ大学の同僚であることで安易だったと、まさか様々な事実があるとは思ってもいなかったと。でもそんなことは過ぎ去ったことよと。過去だってそう、未来だって、結構多くのことが隠されているかも知れないのよと。事実そういう経緯で深刻に考えた挙句書かせて戴いたのであります。楽天主義でしょうか、それに見合う我が亡き主人の絵がないかと探してみたら、主人自身が夭折の覚悟を決めたかのような、このような櫻の絵葉書がありました。季節は違いますが、昨日は昨日、明日から明日、又出発出来ればいいのよと力強く彼女自身がおっしゃった彼女の心情に意を強くし、このお話を書かせて戴きました。又私はそれぞれに哀しみや苦痛があるのだろうなと、不思議なことなのですが、彼女を取り巻くあらゆるご主人さまやお子様やお婆ちゃんまですべての方々に深い鎮魂の情を抱きました。更に我が亡き主人のフィアンセと経歴が実によく似ています。あの方はどうしているでしょうか。彼女に対しても深い鎮魂を心からお送りし、お祈りしたくなったのであります。最後の夢のひとひらはどなたにも深い鎮魂がきっとありますように、今日、すべてに対して鎮魂を祈る日にしたいと思っています。どうぞ皆さんがお幸せになって戴きたくて、それだけがただ一つの願いです。私たちだけが幸せになることはあり得ないのですから。
June 06 誌上絵葉書個展 Ⅰ
Ryuよ 人を愛するって 単純に言えば その人を守るってことじゃないのかい 明日帰るね (徳島より)
誌上絵葉書個展 Ⅰ
引継ぎの準備やら、挨拶廻りや新規事業の計画やら、この処たくさんの仕事で忙殺されています。近いのに、自宅も帰れない日々が続いています。リハビリもあり、体力がとても心配ですが、頑張ってラストスパート!ブログ散歩や文章を書く時間がないために、主人の在りし日、何度も戴いた主人からの手描きの絵葉書を貼り付けて個展に仕立て、この急場をしのがせて下さい。主人は時々たった一人になりたくなって、私を防護壁に使い、ふいといなくなり、寒村や山や野原に旅することが多かったんですよ。でもそんなに回数は多くなかったけれど。絵を描くスピードは絵葉書大で、たったの五分間ぐらい。悪いなぁという気持ちがどこかにあったからでしょうか、宛先の住所欄にちょこちょこっと簡単な走り書きをして送ってくれました。でも殆どは主人の方が先に東京に到着していました。おかしいでしょう!あはははは!!手許にあるのは全部で約350枚ほど。私の心のバランスが難しくなるような忙しい時、自宅に置いてある私のヒミツの缶から箱から、そっとこれらの絵を取り出して時々観ています。(画材 岩彩と万年筆 偶にパステルも)
野の花はいいね 小さくても生命感でいっぱいだ 礼文に廻っていいかい?梅雨時の北海道 今度は一緒に来ようね
去年行ったお遍路の旅の続きをやってる ここは徳島の剣山 山深い奥地です 雨後の風は心地よく素敵!
小樽の赤岩海岸から 積丹方面のオタモイ海岸を眺めた景色 もう蝦夷山櫻は咲いてません 淋しくてオロオロしてて
冬枯れの吉野川上流を目指してトボトボと歩いてる いつか彼女と歩いた道 いとおしき記憶を辿りながら 会いたい
Ryuが嫌いな山頭火の絵を隅っこに描く あの方も人恋しかったのでしょう 愛がなかったら生きられない
嵯峨野をチャリンコで走り 女学生になった気分(笑) 落柿舎裏手 ちっこい自然石の去来のお墓にお参りしました
山形・西蔵王 鳥兜山を見てる もう直ぐ秋 真っ赤に紅葉する筈 芋煮会に強引に参加 河原で戴くのはメチャ美味しい
あははは 誰だったかの文 西行さんだったかいなぁ | |||